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聖フランシスコ吉と甲子園教会
 今を去ること約四百年近く前、当時の中央主権者であった秀吉は突如として禁教令を出し、 キリスト教を弾圧した。
彼の命によって聖フランシスコ吉を含む26名のキリシタン達が、 長崎の西坂丘で主キリストのごとく十字架にかけられて生命を主キリストにお捧げする 我が国最初の尊い殉教事件が発生したのである。
 この26名は教皇ピオ9世聖下によって彼らの偉大な行跡を調査されて、 これを確かめ1862年にカトリック教会の聖人の位にあげられた。
 秀吉の命による正式の死刑宣告を受けた者は最初24名であったが、長崎での殉教者は26名となった。
24名が京都から長崎へ連行される途中に聖フランシスコ吉が現在の甲子園地区で捕縛され、 また聖ペトロ助次郎が西宮で加わったからである。
 当教会の誕生に深く関わり、 今は天国におられる故木村夢庵先生が若かりし24才の時関西学院の神学生であったが、 キリシタン研究のために長崎地方を旅行されたことがあり、 その際、大浦天主堂の聖母マリア像の前でお祈りをされた。
 その時、手にされていたビリヨン神父著の 「鮮血遺書」 を "開いて見よ" というお告げを受けられた。
そこで目についた箇所は、聖フランシスコ吉がこの甲子園の地で捕縛されて殉教者の列に加えられた様子であった。
 そこで先生はこの聖人にゆかりの現在地をこよなく愛され、 記念に聖フランシスコ吉に捧げる教会を建てたいという情熱と願望とを、その時から抱きつづけて来られた。
 昭和28年にバプテスト教会を建てたが、プロテスタンチズムでは飽き足らず、 カトリック教会こそが本当の安心立命を得られるキリストが建てられた教会であることの真理を悟られた。
 昭和38年に大阪教区田口芳五郎大司教に申し出て、カトリックに改宗し、 教会建物とご自分の土地とをカトリックに奉献された。
このようないきさつを経過して私達の甲子園カトリック教会が創立されているのである。
 聖フランシスコ吉についての史実は次の通りである。
彼は伊勢の出身で、京都のフランシスコ会修道院の近くに住む大工であった。
迫害のあった9か月前にスペイン人でフランシスコ会の指導者であったバプチスタ神父から 洗礼を受けたばかりであった。
フランシスコきちのレリーフばん  彼は武士のような気質の持ち主で、秀吉の逮捕者名簿に自分の名が記載されていなかったのを残念に思い、 洗礼を授けてくれたバプチスタ神父と共に殉教の列に加わろうと決心した。
24名が投獄されていた京都の獄舎を酒徳利を携えて訪ね、 牢番に自分もこの酒と引き換えに殉教者の一行に加えられたいと懇願した。
しかしこの願いは聞き入れられなかった。
殉教者達は左耳をそぎ落とされ、キリシタンの見せしめとして京都市内を牛車8台で、 1台に3名ずつ乗せられて引き回されたが、 その時彼はその車に飛び乗ろうとしてはその度に捕吏達に引きずり降ろされた。
一行は京都から大阪・堺の町へと同じように引き回された。
堺は当時南蛮貿易で栄えており、キリシタンが多かったから、秀吉は特にこの町を選んだのだった。
 「鮮血遺書」 によると、一行が長崎巡行の途中に尼崎の西方約8キロの枝川の堤に到着した。
今の旧国道沿いの西岸の橋のたもとに榎の大木があり、その下に茶店があった。
正午頃だったので、護衛の役人が従者に命じてこの茶店で囚人24名を休ませた。
そこから出発しようとした時に、30才位の男が身に紺色の木綿の綿入れをまとい脚絆を付け、 息せき切って馳せつけて来た。
そしてバプチスタ神父の足元に鎚って泣いていた。
役人がこれを見て、汝は何者ぞ、切支丹であるならば不日死刑に処せられる、 汝いま志を改め、早く邪教を棄てよ、疾くこの地を去れ、と。
彼は首を上げ、むしろ自分は死刑に処せられることを望む、どうかこの群れに加えて長崎まで連行し給われ、 と一歩も動かなかった。
役人は激怒してこやつを捕縛せよと高手小手に縛った。
 彼は大いに喜び、バプチスタ神父に向かって、天主の恩寵により私も殉教者の一人たることを得ました。
自分は京都に住む大工で、9か月前に洗礼を受けた後、 フランシスコという堅信の霊名を授かって、その後も信仰怠らず、 殉教の志望を果たさんものと今日までこの列の跡を慕い来た甲斐があって、 このように捕縛され、誉を後世に残すことを得ました。
この恩寵を神に感謝します。
他日天国へ参りましたならば、バプチスタ神父よ、どうかよろしく取り計らい給え、と心地よげに語った。
さすがの役人も心に深く感ずるところがあって、事の次第を書面にしたためて秀吉に知らせ、 ここに正式に殉教者の列に加えられたのである。
 彼は長崎の処刑場で東一番の十字架にかかって、主と聖母マリアのみ名を唱えながら、 刑吏の鈍い槍の穂先で両脇腹を突き刺され、鮮血を噴き出して壮烈なる殉教を遂げたのであった。
 当教会玄関入り口の上に故木村夢庵先生が信仰の遺産の一つとして残された聖フランシスコ吉のレリーフがある。
甲子園教会は木村先生の聖フランシスコ吉に対する燃えるがごとき情熱に基づく信仰によって バプテスト教会をカトリックに奉献されて誕生を見た我が国ではまことにめずらしい特殊な教会である。
 以上述べた創立事情に基づいて、 当時の大阪教区田口芳五郎大司教は聖フランシスコ吉を特に甲子園教会の守護の聖人として仰ぐようにと教えられた。
また安田大司教は毎年2月5日を、 聖フランシスコ吉の 「守護の聖人の日」 として守ることを甲子園教会に命じられている。
ヨセフ 永井光太 永井光太 翁
甲子園教会の黎明
 創立満30年を迎えることになった甲子園カトリック教会は、 その創立の由来に特異な事情を持ち、 その30年の歩みもまたそれなりに独特の経過を持っているが、 何よりも故田口芳五郎枢機卿、安田久雄大司教のお二人のご指導の下に、 また教区内外の多くの教会と信徒に支えられてここまでの道程を歩んで来られたことを思い、 主キリストのお恵みに感謝を捧げつつ30周年を祝う。
 今回この記念誌を刊行するにあたり、この教会の30年の歩みを簡略に振り返って見ることにする。
1.教会成立に至るまで
 甲子園教会が誕生するまでの経緯は、 実に神秘的な摂理と歴史的な意義とが介在していたと言うことが出来る。
その間の事情を、別稿の記念座談会や幾人かの信徒の記憶、そして残された資料から推量すると、 誕生のドラマは次の三つの面でそれぞれが平行するかのように進行していた。
 一つは、田口枢機卿の熱誠あふれる大胆とも言うべきエキュメニカルな活動である。
これは座談会でふれられているように、 枢機卿が第2バチカン公会議の流れを受けて日本キリスト教界の中で極めて積極的にプロテスタント教会との接触、 共同活動を続けられて両者の問の太いパイプ役を担っておられたことから、 木村巳之吉氏(号、夢庵)とのめぐり逢いも生まれたことが読み取れる。
さらに木村氏のカトリックヘの傾きは、枢機卿の善い影響によって完成されて行ったように思われる。
その結果として、木村氏による自分のバプテスト教会挙げてのカトリックヘの回帰が実現したものであった。
 当時この木村氏のカトリック改宗の出来事はカトリック世界の中でのみ知られたものではなく、 一般新聞にもかなり報道された。
そして第2バチカン公会議の画期的な意義とその斬新な姿勢を知る人々にとっては、 正に摂理的な、かつ歴史的な出来事であることが容易に理解された事件であった。
教会正面  二つ目の局面は、 やはり今は故人となられた当時の夙川カトリック教会の主任司祭であった西村良次神父の、 強い信念と熱意あふれるご指導とご活動であった。
 当時、甲子園地区をその小教区の中に持っていた夙川教会の主任司祭としては、 大阪教区の中の宣教の見地から、夙川の東の地区に一つの新しい教会の設立を考えておられたようである。
しかしそれは勿論、西村師の一存ではなかった。
枢機卿はすでに相当早い時期から同師と密接な連絡を取りつつ、 同師に具体的な推進を委嘱していたらしいことが今回の座談会から明らかに知ることが出来る。
同師は、甲子園地区に住む信徒が夙川教会に主日ごとに通う不便さという現実の条件も考慮して、 甲子園地区に教会を建てようという強い信念を持たれて努力を続けておられたのである。
それはただ単に土地を捜すだけでなく、 甲子園地区の信徒の献金は来るべき教会のために別に積み立てるような経済的な面での配慮も充分にされ、 また甲子園地区の信徒だけの集まりをも指導されるなど、 着々と甲子園教会の設立の姿を明確に描きながら準備をされ、信徒にもさせておられたものである。
そして、この成果が、先述の枢機卿と共に進行していた摂理的な出来事と見事に合致して、 甲子園教会の設立が一挙に実現したものである。
 もう一つ忘れてはならないのは、甲子園地区に在住していた信徒達の間にあった強い希望と地道な努力である。
 もっともこの間の詳細な事情は記録されたわけではないので、あまり判然としたものではないが、 前記の西村師の新教会建設に向けての努力としての甲子園地区の信徒の集まりと平行して、 若干の有志による可能な範囲での自発的な努力があった。
時期的には定かではないが、 その人々による木村夢庵氏との接触も少しあったようである。
 また、これも部分的であったようだが、信徒有志の自宅を利用して、 当時夙川教会の助任司祭であった飯島豊師が訪問し、土曜学校という形での司牧が小規模ながら行われていた。
同師もすでに帰天され、残念ながらこの動きはこれ以上に明らかにはならないが、 ある意味では来るべき甲子園教会に向けての受け皿作りとも言うべき努力があったことは事実である。
 時間的には前後するが、この信徒有志の働きは甲子園教会の設立によって報われたのであるが、 成立した後にも、教会を維持して行くために信徒を少しでも多く獲得する努力にも繋がった。
献堂の当時はまだ甲子園教会の新設を知らずに、 夙川教会や尼崎教会など他の教会に通う甲子園地区在住の信徒が多かったので、 これらの人々に甲子園教会へ移ってもらうという努力が必要だったのである。
2.新教会の献堂とブルゴス会司祭
 1963(昭和38)年7月28日は甲子園教会の献堂の日であった。
その日の記録は必ずしも正確に残されてはいないが、枢機卿にとっても、西村師にとっても、 そして当時の甲子園地区の信徒達にとっても、実に感慨深い出来事であったことは言うまでもない。
主がこの地にあらかじめ耕された畑に夙川から一群れの信徒が移住し、新しい生活と成長を始めた日であった。
ついしばらく前までバプテストの信徒達が集い、祈り、歌ったその聖堂で、 今度はカトリック信徒達がその祈りを引き継いで行った。
献堂式には若干のバプチスト信徒も参加したそうである。
 しかしこの甲子園教会の誕生に際しては、もう一つの別な折衝が進行していた。
 教会の建物が出来て信徒が移り住めば、その群れを指導する司祭が必要である。
枢機卿は夙川教会の分教会としての甲子園教会に西村師を主任司祭と定めた。
これは後に甲子園教会が独立の小教区として公式に認可される1975(昭和50)年に至るまで続く。
しかし、夙川教会は大きな教会であり、西村師は甲子園教会の主任司祭ではあっても、 実際問題として甲子園教会へ行き、ミサを初め充分な指導が出来る状態ではなかったので、 甲子園教会は当初は巡回教会とされた。
そしてその巡回司牧のために、教区から六甲教会を司牧するイエズス会に協力が依頼された。
それに応えてイエズス会から、 ピエトロ・ベレッティ師とジャック・ベジノー師が来て主日だけの巡回司牧が始まったのである。
ステンンド・グラス  そのころ、スペインの教区司祭で外国の宣教のために働きたいと言う志を持つ司祭の集まりである ブルゴス宣教会(現在、スペイン外国宣教会)が既に1950年から来日しており、 大阪教区で枢機卿に協力を約束して、主に四国地区の宣教を担当していた。
枢機卿は、甲子園教会が出来たのを機会に、 ブルゴス会と折衝して甲子園教会の司牧の引受を要請ないし打診したようである。
ところが出来るだけ信徒の少ない地方における宣教活動を希望していたブルゴス会としては、 慎重に検討した結果、一度この要請を辞退したようである。
そこで枢機卿はこの要請に替えて、 別に多忙な夙川教会の助任司祭としてブルゴス会から司祭を1名派遣するよう要請し、 ブルゴス会はこれを受け入れ、ダヴィド・テレス師が夙川に着任した。
西村師は早速ダヴィド師に新しい甲子園教会の巡回司牧の助力を要請し、 イエズス会の両師に代わって、ダヴィド師が司牧に当たることになった。
 こうして夙川の助任として働くことになったダヴィド師は、 新生の熱意あふれる甲子園教会の信徒達との交わりを深めてゆくにつれて、 自分が真に司牧者であるためには、 どうしても主任司祭となって彼らを引受けなければならない立場にいることを、徐々に発見することになった。
そこでこれをブルゴス会に申し出、ブルゴス会としても了解し、あらためて枢機卿に対し、 大阪教区の甲子園教会の司牧を担当することを承諾した。
ここにブルゴス会と甲子園教会のその後30年の今日に至る善い関係が出発したのである。
ブルゴス会はダヴィド師に対し1964年9月14日付でそれを発令した。
3.初期の日常と補修の日々
 こうした枢機卿や司祭達の働きに呼応して信徒達もまた、 自分達の教会を自分達の手で維持するために非常な努力をしたことは明記しておかねばならない。
発足当初こそ西村師の長く周到な準備や大司教館の配慮またブルゴス会の隠れた援助によって、 ある程度は苦労せずに出来た教会であったとしても、その後の皆の努力は、 セグラ師の指摘するように誕生したての教会とは思えないほど、活気と助け合いの姿勢に満ちていた。
が、待っていたのは、改修、改築の連続であった。
ロビー  新教会は、外観は鐘楼を持った瀟酒な白いモルタル塗り聖堂と、 もう一棟はカルバリ館と名付けられていた建物で、司祭館兼信徒館として使用された。
聖堂は1953(昭和28)年、カルバリ館は1956(昭和31)年の創建である。
木造の聖堂の内部は黒っぽい木の梁組みに白い壁、腰板張りという素朴な感じを持っており、 床は畳敷きであった。
座ってあずかるミサはまるで長崎の地に多い聖堂の雰囲気があった。
当時、阪神タイガースで活躍したアメリカ人投手で信徒のバッキー氏が音をあげていた様子が目に浮かぶ。
bold;">  この聖堂を、既に二百名近く集まった信徒に必要な広さに合わせるため、 少し敷地内に引っ込んで建っていた入り口部分を、 敷地の縁一杯にまで張り出す形で僅かでも広げるように改修することになり、 この時畳敷きの教会から板張りの教会になった。
この改修は1966(昭和41)年に行われている。
 その後程なく、今度は信徒が活動するのにどうしても信徒舘が狭いため、 旧カルバリ館を、新しく3階建てのより広く大きな信徒会館に建て直し、 司祭館としても充分な設備を確保することになった。
この動きは1970(昭和45)年中頃から起こり、建設は1972(昭和47)年に完成している。
いずれも座談会や信徒の手記から、その苦労の様子が偲ばれる。
 また少し前後するが、 1969(昭和44)年には信徒会の前身である教会運営委員会の発足と教会新聞の創刊がある。
1970年には信徒会が成立し、信徒会館の落成を経て信徒の意識は飛躍的に成長した。
1974年の新聞には信徒がやっとブルゴス会司祭の生活費を負担できるようになったという記事が見える。
4.小教区としての独立と活動
 大阪大司教区による甲子園小教区の正式の設立は1975(昭和50)年1月21日付である。
1月19日に西村師の司式により、甲子園小教区の独立を祝う記念ミサと祝賀会が行われた。
その翌七六年には教区レベルからの「小教区司牧評議会」の研究と設立が推奨された年であるが、 甲子園教会は早速これに対応して研究を進め、7月には「甲子園カトリック教会評議会」を発足させている。
 1977(昭和52)年は甲子園教会に甲山共同墓地が出来た年であった。
信徒がいつも教会から望めるこの身近な山に帰天した親族たちを納め、 いつも気軽に墓参出来るようになったことは一層信徒の間の兄弟感を育てて行ったように見える。
しかしながら、その翌年1978(昭和53)年2月、その同じ墓苑内の教区墓地に、 甲子園教会誕生に非常な尽力をされた田口枢機卿が葬られることになった。
今30周年を迎えた甲子園教会は、 あらためて深い感謝をこめて故枢機卿のために心からの祈りを捧げるものである。
 毎年11月2日の死者の日の近くに行われる阪神地区の合同墓参に合わせて、甲子園教会の信徒は、 帰天された枢機卿を初め教区司祭の墓地と小数区の共同墓地を訪ねて祈っているが、 この時から毎年一度も欠かすことなく続いている。
 またこの頃から、阪神地区9教会の間でも信徒使徒聴評議会を中心にいろいろの交流が盛んになり、 ソフトボール大会も定着していった。
甲子園教会にも、この頃獲得した幾つかの表彰カップがある。
合同運動会も1981年に始まった。
 甲子園教会の中では、しかし最も大きな関心事は聖堂の建て替えであった。
すでに1980(昭和55)年に必要性の論議が進み、翌81年には安田大司教の承諾を得て、 新聖堂建設が本決まりとなり、募金も進められ、建設委員会は度々の検討会を持った。
それは何かあの初期の頃の熱気を思わせるものがあった。
建設は藤木工務店により行われた。
 この新聖堂建設が決まった1981年の2月は、日本中が感動と興奮に包まれた。
教皇ヨハネ・パウロU世の来日であった。
それはあたかも甲子園教会の新しい出発を祝福するためであるかのようなの訪日であった。
この年の後半から翌年にかけての新聖堂建設中は信徒会館め3階に仮聖堂を設け、 信徒はより親しい雰囲気で沢山のミサを捧げた。
聖堂の建設はいろいろな意味で信徒にとって交わりと共感を深めるものである。
 新聖堂は1982(昭和57)年に落成し5月16日大司教によって荘厳な献堂式が行われ、 ここに、あの古い、小さな教会 (その昔、ブルゴス会のある神父がこの聖堂を見て 思わず「我がイグレシタ〜何と小さくて可愛い聖堂よ!」と思わず叫んだと言われる)、 すなわち木村夢庵氏が熱烈な信仰をもって建立した教会堂は、 新しい時代に向けて、その面目をまったく一新したのである。
 しかし、新聖堂にはまた、 古い建物の中で常に新しい生命の意味を伝え続けて来た幾つかの由緒ある伝統の品が、 その居場所こそ替えながらも、素晴らしい調和をもって生かされている。
甲子園教会の祭壇では普通の教会の十字架にあたるものが無いように見えて、 実は非常に特異なことに、立派なステンドグラスがそれであることに気がつく来訪者は多い。
しかし、それが著名な日本画家である堂本印象氏の作品であることを知らない人は多い。
まして、他に若干の陶板を含めた甲子園教会の同氏の作品はほとんど知られていないようである。
 1983(昭和58)年、「聖年」が定められた。
新聖堂の雰囲気に嬉しくも、もったいなくもという感じもようやく収まり、 甲子園教会がさらに、教区の枝として前進を始めて行った。
5.新しい時代に向かって
 甲子園教会の清新な気持ちは、 日本カトリック教会の大変身とも言える新しい風の動きにもちょうど一致したように思われる。
 1984(昭和59)年6月22日、日本司教団による「日本教会の基本方針と優先課題」の発表があった。
これは、他の教会にもあったのと同様、甲子園教会にも一種の驚きととまどいがかなりあった。
しかし、その後の種々の集会を通じて新しい集いの試みが徐々に理解され、経験され始めて行くにつれ、 甲子園教会の信徒は新たな交わりを自分のものにしようとしているように思われる。
その結果として、 ナイスに向けての関心と活動も盛り上がりを見せた。
 この間、1986(昭和61)年2月に甲子園の信徒は教会の礎となった木村夢庵氏の帰天を見送ることになった。
しかし、この地に聖フランシスコ吉に捧げる聖堂を建て、カトリック教会に捧げた同氏の信仰と情熱は、 その後の信徒一同の祈りと努力によって昔の面目を一新したばかりでなく、 新しい活力に満ちた信仰の継承となって行く様子をずっと目の当たりにし、 思い残されることはなかったのではなかろうか。
木村夢庵氏の摂理的な存在に、 あらためて主の導きの手を思いつつ同氏の永遠の安息をお祈り申し上げる。
 信徒はまた、同じ年の4月27日に元主任司祭カシミロ師が故国で帰天されたという報らせを聴くことになった。
歴代司祭が元気で活躍されている中、早過ぎたご帰天であるように思われるが、 同師が信徒にもたらされた沢山の講話が今もなお有益な導きであることに、 主のご計画の中で同師が召された意味を黙想したい。
そして、同師のためにも主の安らぎをお祈り申し上げる。
 訃報はさらに1988(昭和62)年の末にもう一つもたらされた。
元夙川教会主任司祭、そして甲子園教会の産みの親の一人である西村良次師の帰天である。
高齢になられて故郷の橋本教会で老後を養っておられた後、病気のため高槻のガラシア病院で入院加療されていたが、 突然主のお召しを受けた。
夙川教会に運ばれたご遺体を囲んで、 大司教初め大勢の司祭の共同司式による厳粛な葬儀ミサであったが、 甲子園教会の信徒の名残りを惜しむ長い列が、はからずも歴史をもの語っているようであった。
 1989(平成1)年は甲子園教会にとってもう一つの新しい動きが始った。
 前年に起こった信徒会館の老朽化による外壁の劣化を補修する必要が論議される中で、 教会建物の補修、改築を予測した基金の整備計画である。
この機会に古い信徒達は皆これまでの30年近く、改修・改築・新築と休む間もなく、 追われるように苦労して来た過去の歴史を感慨深く思い返したに違いない。
しかし今回、目前の必要で信徒会館を補修するものの、むしろ今後必ず起こる大きな出費のために、 平常から長期的な展望で基金を備蓄することになった。
補修そのものは年内に無事終了した。
フランシスコきちのレリーフ  1990(平成2)年からは大阪教区100周年記念行事を中心に推移した。
92年6月の終了まで、信徒は快くいろいろな行事とその準備に協力し合ったことで、 信徒の結束と交わりは一層成長して行ったと言える。
 甲子園教会にとって1991年はもう一つの大きな発展と成長のための道が開かれることになった年である。
木村夢庵氏の宅地は南が信徒会館、西が聖堂に接していたので、ちょうど甲子園教会に抱かれる形であった。
この土地をご遺族が手放すことになり、 かねてから甲子園教会の手狭さを気にかけていた安田大司教は敢然と巨額の費用を投じて入手され、 甲子園教会の信徒にこの土地を託されたのである。
30周年にあたり、甲子園教会の信徒一同は、あらためて大司教のご決断とご高配、 そして教区全体のご理解に心からの感謝の祈りを捧げ、 その激励の下に今後とも良い教会作りに邁進する決意を新たにする。
 この時期に、甲子園教会の歴史としてはもう一つ特筆して付け加えておくべきことがある。
それは、外国人信徒の教会への参加である。
甲子園教会には特に南米のペルー、ポリビアからの労働者達が多数集まるようになったが、 甲子園教会の場合、一つの条件があった。
それは司祭がスペイン人であり、彼らにとって自分の言葉で話が出来る司祭が居るということは、 異国では貴重な存在だったからである。
もっとも勤め先も教会の近くであったことが幸いした。
 彼らは甲子園教会の司祭や信徒の好意に助けられて、努力して日本語を勉強していたので、 だんだんと言葉の上でもお互いにの気持ちが通うようになり、ただミサだけでなく、 我々が誘う行事にも喜んで参加し、好い交流が進んでいる。
最近はミサの中でも共に歌える聖歌を試みるなど一層の交わりが努力されている。
ただ、いわゆる法的な問題などもあって、司祭はいろいろと苦労することが多いようである。
 こうした中で1992(平成4)年11月1日を期して、 「甲子園カトリック教会創立30周年記念期間」が発足した。
信徒に有益と思われる幾つもの行事をはさみながら、甲子園教会の歴史を思い、 過去に苦労した先輩信徒達の苦労を感謝しながら、将来の一層の発展を願いつつ、 今主への賛美と感謝のうちにこの行事を祝うものである。

1993年7月 三十周年記念委員会 (※写真は近年のものです)