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信仰がなければ…  
ラウレンチオ 小池二郎神父
 「信仰がなければ、神に喜ばれることはできない。」(ヘブライ人への手紙11章6節)

 大阪教区に、アウグスティヌス大園義興(1923−1976)という司祭がいました。 まだこの方を憶えておられる方も少なくないと思います。 大阪教区で出版していた月刊誌「声」の編集長、英知大学の副学長もされました。
 彼が寝屋川市にある香里教会の主任司祭であったとき、わたしはその助任司祭でした。 彼は53歳でなくなり、早世が大変惜しまれました。 彼は文章を書くことが得意で、またとても早く書いたのですが、生存中は、書き溜めたものを本にするとか、 新しく本を出そうとかいう意思は全く伺えませんでした。
 しかし、「声」誌のために書いたものが相当にありましたので、その他のものと併せて、 分厚い上下巻の遺稿集を出すことになりました。 わたしもそれに携わりました。 編集委員たちの間で、大園義興神父をどのように世に紹介するかが問題になりました。 彼が秀才であることは良く知られていました。 日本の古典にも通じ、フランス語や英語が良くできることも、たぶん良く知られていたでしょう。 ところが、同神父から少し前に洗礼を受けた一人の委員が、彼は信仰の人であることを強調し、それを文字でも表すべきだと主張しました。
 わたしはしばらく彼と生活をともにしたので、ある程度まで彼のことは知っていました。 彼はほとんど漫画を読むためにだけに(少なくとも、そのようにわたしには見えました)、英字新聞を取っていましたが、 漫画を見ると、何時もすぐに笑い出しましたから、英語も良くできるのだなと思います。
 わたしは人間として彼から尊敬されていたとは思いません。 しかし彼より5歳年下の助任のわたしに、時として、謙遜に(少なくともそのときは)、 わたしに、ゆるしの秘跡の告白を聞くように頼みました。 そんなこともあったので、彼の信仰がいい加減のものではないかと疑ったことは一度もありませんでしたが、 この新しい信者の発言で、わたしの信仰に対する感じ方が、少し変わったように思います。 そのときから信仰の気高さと尊さを少しは正しく感じるようになったと思います。 それから25年、わたしの信仰についての小さい目覚めの感覚が、幸い今も続いています。
 信仰がどんなに尊いものであるか、それをいただいている本人が忘れていてはどうにもなりません。
 人間にとって一番大切なことは、神に喜ばれることではないでしょうか。 なぜなら、人間は神によって造られたものであり、人間が目指す善の源も神だからです。
 神様はたしかに十戒を守ることを望んでいらっしゃいます。 イエス様は、富んだ青年に、十戒を守っているかと聞かれました。(マタイ19章18−19節)
 イエス様は山上の説教で、しんぷくはったん真福八端(本当に幸せになるための八つの心の状態)を教えられました。 それを目指すことは、父である神様のお望みでもあります。
 十戒を守ることも、真福八端を目指すことも神をお喜ばせします。しかしそのための基礎は、信仰ではないでしょうか。
 信仰は信望愛という対神徳の第一に位置するもので、信徳ともいわれ、望徳と愛徳の基礎になるものです。 対神徳は神様からの恵みですから、決して自分の力だけで得られるものではありません。 したがって、信仰もまた神様が与えてくださらなければ自分で得られるものではありません。 しかしわたしたち自身が望まないものを、どうして神様がお与えくださることが出来るでしょうか。 わたしたちが望まなくても、神様が与えてくださることは、有りうることです。
 しかし望まないものをいただくことを、どうして期待することが出来るでしょうか。 本当に望むということは、ほんとうに祈るということです。 わたしたちが真剣に祈るとき神様は必ず聞き入れてくださるという教えも教会にあります。 信仰がどれほど大きい恵みであるかを、それがどれほど力のあるものか、わたしに悟らせてください。
 「…世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。 だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。」(ヨハネの第一の手紙5章4節b‐5節)
 信仰について、イエス様の次のお言葉もあります。
 そこで彼らが、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と言うと、イエスは答えて言われた。 「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」(ヨハネによる福音6章28‐29節)

今年は、ふつう、吉報の第一頁に、聖書の語句の簡単な説明を書かせていただきます。 しかし、時として、別のことを書かせていただくこともあろうかと思います。