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種は、良い土地に落ち、百倍、六十倍、三十倍になった
マタイによる福音13章8節
ラウレンチオ 小池二郎神父
 イエスはたとえを用いて彼らに多くのことを語られた。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。 蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。 ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。 しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。 ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。 ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、 あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。 耳のある者は聞きなさい。」(マタイによる福音13章3節‐9節)  今回取り上げるイエスさまのたとえほど、分かりやすいたとえは、他にはないのではないでしょうか。
 このたとえ話を聞いた弟子たちは、イエスに近寄って、「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話になるのですか」と質問し、 イエスは、「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである」(10節‐11節)とお答えになりました。

 さらにイエス様は次のように言われます。(12節‐23節)  だから、彼らにはたとえを用いて話すのだ。見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである。イザヤの預言は、彼らによって実現した。
 「あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。 こうして、彼らは目で見ることなく、耳で聞くことなく、心で理解せず、悔い改めない。 わたしは彼らをいやさない。」 (ここは、14節‐15節、イザヤ6章9節‐10節〔七十人訳〕の言葉をやわらげての引用)しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。 あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。はっきり言っておく。多くの預言者や正しい人たちは、 あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いていることを聞きたかったが、聞けなかったのである。
 だから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい。だれでも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。 道端に蒔かれたものとは、こういう人である。 石だらけの所に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて、 すぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、 御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である。 茨の中に蒔かれたものとは、御言葉を聞くが、 世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない人である。 良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである。(13節‐23節)

 わたしたちは、預言者が見たくても見ることが出来ず、聞きたくても聞けなかったことを「福音書」を通し、信仰によって、見たり聞いたりすることが出来ます。 何という幸運でしょうか。
 イエス様の教えられた奥義を、その時、理解することが出来なかった人の中にも、 後でこのたとえを通して、理解する恵を与えられた人が少なくなかったのではないでしょうか。
 また、わたしたちを含め、福音書を読む人々に、このたとえはなくてはならないものとなり、また、おそらく12使徒にも役立つものとなったのではないでしょうか。
 同じ質の種も、落ちる場所、(1)道端、(2)土の薄い岩地、(3)いばらの中、 (4)陽の当たる良い土地によって、違った運命をたどります。種の落ちる場所は、人々の心のことです。  これら四つの場所を暗記しましょう。