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09月05日 年間第23主日
「その人に向かって『エッファタ』と言われた」。耳が聞こえず舌の回らない人をいやされるイエスの姿が語られます。 このイエスの姿は、旧約聖書で約束されていたメシアの姿そのものです。第一朗読のイザヤ書が語るように、メシアは人々の様々な苦しみを解放するのです。 「その時、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。 その時、歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う」(イザヤ35:6)そのとき、メシアがこの地上に現れるのです。
人々が耳の聞こえず、舌の回らない人を連れて来て、いやしを願った時、イエスは天を仰いで深く息をつき、『エッファタ』と言われます。 これは『開け』という意味です。マルコ福音書はイエスの言われたことばをヘブライ語のまま、記しています。 これは目撃していた人々の感動をそのまま伝えているためだと思います。
ところで、イエスの『エッファタ』という言葉は、イエスをただの大工に過ぎない人間としてしか見ておらず、イエスの本当の姿、 すなわちメシアとして受け入れることができなかったファリサイ人たちや群衆たちに向けて、イエスは『エッファタ』、『開け』と言われたのではないかと思います。
『エッファタ』は、私たちに向けて言われたことばでもあります。イエスは、天を仰いで深く息をつき、『エッファタ』と言われました。 「天を仰ぎ」とは、あの最後の晩餐の時にパンを手にして祈りを捧げ、「これを取って食べなさい。 これはあなたがたのために渡されるわたしの体」とご聖体を制定された時と同じ、祈りの姿です。 パン(ホスチア)がミサの中で聖体に変化するとき、イエスは私たちに「開かれよ、エッファタ」と叫ばれているのです。 だからご聖体を受けるとき、私たちは「私たちの心の目を開いてください」と祈りながら、いただくことにしましょう。
09月12日 年間第24主日
今日の福音は、マルコ福音書の前半の頂点であると同時に、後半の出発点になる個所です。ペトロは弟子たちを代表して「あなたは、メシアです」と告白します。 ここで初めて弟子の口を通してイエスが「メシア」であると宣言されます。
しかし、イエスが明らかにしているメシア像を弟子たちは理解しておらず、当時の常識でメシアを理解している弟子たちの姿がすぐに明らかになります。 弟子たちが期待していたのは、異邦人であるローマによる支配からイスラエルを解放してくださる現世的な勝利者としてのメシアでした。 私たちの罪を背負い、私たちの罪のために十字架にかけられて死ぬメシアではありませんでした。 イエスは確かにメシアですが、人々の期待に沿ったメシアではありませんでした。
弟子たちのメシア理解をただすために、イエスは初めて受難と復活を予告します。それを聞いたペトロは慌ててイエスをいさめました。 メシアを地上の勝利者であると思い込んでいたペトロは、イエスの死を恐れ、イエスの前に立ちはだかって、十字架への道を阻止しようとしたのです。 それに対してイエスは「サタン、引き下がれ」と強い口調でしかりつけられました。
私はこのサタンという言葉は、イエスの優しさをというか思いやりを表しているのではないかと思います。 ペトロの存在がサタンなのではなく、その時ペトロを突き動かしていたのが、神の計画に敵対するサタンだったので、イエスはサタンを叱ったのではないでしょうか。 ペトロの存在自体を否定しないようにするイエスの心が現れているのではないでしょうか。
イエスは群衆を呼び寄せて、自分に従うことの意味を教えます。イエスは十字架へと向かうメシアです。 ですから、イエスに従う人も「自分を捨て、十字架を背負って」続いて行くことになります。 「自分を捨てる」とは、自分の想いを捨てること、すなわち人間の常識で神の想いを理解することを捨てることです。 背負う自分の十字架とは、人間の常識とはかけ離れた神の想いなのです。イエスは、神の想いに従って十字架を担いました。 後に続くよう招かれている私たちも、自分の常識ではなく神の想いを担うことが求められているのです。
09月19日 年間第25主日
イエスは、先週の福音に続き再び自分の死と復活を予告します。 その度に、弟子たちの無理解な姿が示され、イエスはその弟子たちに十字架の道の意味を解き明かしてゆきます。
イエスと弟子たちは、イエスの姿が変わる変容の出来事のあった山から降りて、ガリラヤを通ってカファルナウムにやってきます。 イエスは弟子たちに「途中で何を議論していたのか」と尋ねますが、彼らは黙っていました。それは「途中で誰が一番偉いかと議論し合っていたからでした。 「途中で」が二度使われています。二度目は入れなくても意味が通じます。なぜマルコはわざわざ「途中で」を入れたのでしょうか?
「途中で」と訳された語を直訳すると、「その道において」となります。まずここでの道は、ガリラヤを通ってカファルナウムに至る通路としての道を指しています。 でもそれだけではないと思われます。マルコは「その道」を好んで使い、特別な意味を持たせているからです。 例えば、弟子たちが本物のイエスの理解者としての弟子になる途上でという意味があるでしょう。弟子たちはイエスから教育を受けていたのです。 また、初代教会はイエス・キリストを信じる者の集いを「この道」と呼んでいましたので、イエスを信じる初代教会の人々がイエスを学ぶ途中でとも考えられます。 ヤコブの手紙にあったように、初代教会の中でも誰が一番偉いかをめぐる対立があったのかもしれません。
マルコの意図には、イエスの死と復活の二度目の予告との関連で、イエスが歩んでいる「十字架への道」があったと思われます。 弟子たちは、イエスの予告の意味が分からないのに、「怖くて尋ねられ」なかったし、 その道において議論していたのは「誰が一番偉いか」でしたから、彼らはイエスの歩む「十字架への道」が理解できていなかったのです。
そこでイエスは弟子たちに、二つのことを教えました。一つ目は「仕える者になりなさい」でした。 「仕える」とは、「食卓で給仕する」という意味で、そこからあらゆる奉仕を意味する言葉になりました。 二つ目、イエスは子供を受け入れるように教えます。子どもを受け入れる人は、イエスを受け入れ、父なる神を受け入れるのです。 イエスはご自分の言葉通り、使えるために十字架にのぼり、すべての人を受け入れたのです。 「仕える」ことと「受け入れること」はキリスト者としての基本姿勢を示しているのです。