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聖母被昇天に原始福音を読む
ラウレンチオ 小池二郎神父
 「主なる神は、蛇に向かって言われた。(創世記3章14節)……お前と女、お前の子 孫と女の子孫の間に、わたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかと を砕く。(同章15節)」(新共同訳)
 人祖が罪を犯し、楽園から追放されることになったとき、この預言は、一見、微かな 光に見えますが、神は人類に大きい、確かな希望を、短い言葉で表現なさいました。 それが、創世記3章15節であり、「原始福音」と言われています。
 この預言は聖書が書かれてから後の時代のすべての人々に、直接または間接的に宛てられていますが、新約時代のわたしたちには、芥子だねほどの信仰さえあれば、その成就が既に始まっていることが分かります。
 1854年12月8日、ピオ9世が、聖マリアがその母聖アンナの胎内に宿られた最初の瞬間から、原罪とそのいかなる汚れからも免れておられたことを、 1950年11月1日、ピオ 12世が、聖マリアが死後、霊肉ともに、直ちに天国に入られたことを、 正式にカト リック教会の信じるべき教義として、教書で荘厳に発表されたときにも、それぞれの 教書に、創世記3章15節が、聖母の無原罪を啓示する聖書の一つの個所として引用さ れています。
 聖書を最終的に解釈するのはカトリック教会の権利と義務です。 しかし、教会もその解釈を、ただ勝手に行うものではなく、聖書の他の個所と比較し、聖書にはそのまま載せられなかった聖伝を慎重に考慮して行いますから、 信者は教会の解釈を、そのまま受け入れることが出来ますが、その根拠を自分の理性で考えることは意味のあることです。
 「お前と女」の女は誰のことでしょうか。女はギリシャ語にも冠詞を持ち、色々な現代語訳聖書にも定冠詞がついています。創世記によれば、 まだ名前さえつけられて いなかったエバのことでしょうか、それとも女性一般のことでしょうか。
 原始福音の直前にエバの話がありますから、女の「文字通りの意味」は「女性一般」ではなく、 エバその人ではないでしょうか。しかし、女の子孫は悪魔の子孫の頭を踏み砕くのですから、悪魔と女の間におかれた敵意はただものではありません。 このこ とを考えると、その女は、冠詞がついていても、ただエバ一人に終わるものではないような気がします。
 次に、女の子孫の文字通りの意味については、恐らく、悪魔(蛇)に徹底して打ち勝つ人間の集団であり、悪魔(蛇)の子孫のそれについては、悪魔に支配された人間の集団のことでしょう。 しかし、女が蛇を恨めしく思うだけで、その子孫が徹底的に悪魔の子らに勝てるものではありません。悪魔とその子らに徹底して勝利を得ることの出来る方はイエス・キリストを置いて他に誰もいないのではないでしょうか。
 聖書の解釈で、最初に問われることは、文字通りの意味が何であるかということです。大抵、文字通りの意味は、聖書記者が意識していた意味ですが、その第一の記者は聖霊ですから、それが必ずしも、 人間記者の意識と常に同一である必要はありません。次に、「文字通りの意味」に隠されている「より深い意味」が時に聖書に見られる場合があり、創世記3章15節がそれに当たると思います。
  蛇と女の子孫は、ギリシャ語では種(スペルマ)、ラテン語でも種(セーメン で、いずれも三人称単数中性名詞です。ヘブライ語でも種です。このような場合、普通は集合名詞として使われますが、 個人として考えるのも異例ではありません。 聖ヒエロニムスの訳したヴルガタ訳ラテン語聖書では、子孫を表す代名詞は「彼女」です。 これを単純な誤りとする註解書もありますが、わたしはそうとも言い切れない ように思います。その理由は、ラテン語の子孫を表すもう一つの言葉「プロリス」は 言葉として女性だからです。 それから、幾人かの教父達が考えたように、聖ヒエロニムスがその代名詞に聖マリアを当てていた可能性もあります。実際、その立場を取っ たとしてもイエス・キリストの救済の力を少しも弱めることにはなりません。 しかし、その代名詞を中性の「それ」としておくか、古いラテン語訳や70人訳ギリシャ語 聖書のように「彼」とするのが、現代の聖書の大勢です。 ちなみに、カトリックのエルサレム聖書は「それ」。
 「その女」の子孫は、「それ」としても「彼」としても、「より深い意味」において はイエス・キリストであり、「その女」は彼を産んだ聖母マリアのことです。
 原始福音の「より深い意味」を探る筋道は、まず、悪魔に勝つ個人は誰かに始まり、彼を産んだ女は誰かに進むことだと思います。