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御子に似た者となる 
ラウレンチオ 小池二郎神父
  「愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、 まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。 なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。 御子にこの望みをかけている人は皆、御子が清いように、自分を清めます。」(ヨハネの第一の手紙3章2節‐3節)
 御子が現れるとき御子に似た者となるのはなぜか。聖パウロは次のように言っています。 「神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。 それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。 神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。」 (ローマの信徒への手紙8章29節‐30節) しかし、聖ヨハネは、上の引用個所によると、わたしたちが御子に似るのは、わたしたちが彼を見るからだと言っています。 両者の主張に矛盾があるとは言いませんが、 果たして、わたしたちは、御子を見るから、御子のようになるのか、 それとも、見る能力が先に与えられるから、見ることが出来るのでしょうか。 本質的には見る能力が先だと思います。
 見る能力が与えられるということは、既に変えられているということではないでしょうか。
 ところで、「見るから」の「から」が問題です。わたしが見た現代語訳は、 見ることが先で、わたしたちが変わることが後という因果関係を示す接続詞を使っています。 その接続詞に当たるギリシャ語は“ホティ”で、英語の“ザット”に当たります。 そこでわたしは、御子を見ることを、必ずしも、わたしたちが変えられることの原因と取る必要がないのではないかと考えました。 もしどうしても、ホティを原因の接続詞として取るなら、それを、御子を見ることが、 復活した人々のからだの上向きな変化を知る根拠であることを示す接続詞と取ってもいいのではないかと考えています。 わたしたちの、今日の目的のために、それはどちらであってもいいと思います。
 次に、「御子が現れるとき」とはいつのことか。わたしは世の終わりだと思います。
 初めの引用の少し前に「さて、子たちよ、御子の内にいつもとどまりなさい。 そうすれば、御子の現れるとき、確信を持つことができます。」(同書2章28節)とあり、 ヨハネによる福音書に「わたしをお遣わしになった方の御心とは、 わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである」(6章39節)とあります。 これらを併せて考えると、「御子が現れるとき」は世の終わりのことだと思います。

 聖パウロも終わりの日について、よく似たことを言っています。 「わたしたちの本国は天にあります。 そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、 わたしたちは待っています。キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、 わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。」 (フィリピの信徒への手紙3章20節‐21節)
 ところで復活のからだとはどんなからだでしょうか。主の復活の日の夕方、 弟子たちはユダヤ人を恐れて家の戸に鍵をかけていたのに、イエスが来られて、真ん中にお立ちになり、 「あなたがたに平和があるように」(ヨハネによる福音書福音20章19節)と言われました。 たしかに、復活したイエスのお体には、透明人間のようなところがあります。 しかし幽霊ではなく、確かなからだであることを、ヨハネによる福音書の21章は強調しています。
 以前、わたしに、復活したからだに顔があるはずがないと真面目に言った信者さんがいました。 復活が信じられない人のことは分かりますが、 復活を信じながら、顔のない人体を想像する人のことはよく分かりません。 復活した人間にも、その人と見分けられる顔、しかも美しい顔があるはずです。 御変容のイエス様にもそれがありましたから。

 わたしは、決して、そこに到達してはいないのですが、 今年の四旬節に感じていることは、信者に求められている復活の希望は、 ただイエスの復活の外面的な超越性に与ることではなく、 主イエス・キリストの限りない愛、苦しみを通して完成されたその人格にもあやかる切なる希望ではないかということです。