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愛の実践を伴う信仰  
ラウレンチオ 小池二郎神父
 「キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。」 (ガラテヤの信徒への手紙 5章6節)
 イエス様は、旧約聖書の教えを総括して、聖書が言わんとするところは、第一に大切な掟が神を愛すること、 第二に大切な掟が隣人を自分のように愛することだと言われました。 それはイエス様の聖書解釈に止まらず、イエス様ご自身のお考えでもあります。
 信者は常に自分の行いが愛に基づくものであるか、愛に反することはないかに注意する必要があります。
 今日選んだ聖句は、有名ですが、これはイエス様の愛の教えを、聖パウロが聖霊に導かれ、独自の表現で、見事に説明しています。
 キリスト教において、信仰が大切なことはあらためて言うまでもありませんが、 どんなに大きい信仰も、愛がなければ、最終的には無に等しいということを、聖パウロは次の言葉で述べています。 「…山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。」(コリントの信徒への手紙 一13章2節)
 今日の聖句は、このコリントの信徒への手紙の考えを別の言葉で短く言っています。
 マルチン・ルターは、真面目な修道司祭でしたが、そのためか、思いの罪を避けることが出来ないことに大変悩んでいたと言われています。 ある日、その悩みの中で、次の句を読みました。
 「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。 福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。 『正しい者は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです。」(ローマの信徒への手紙 1章16節〜17節)
 ルターはそれまでこの個所を何度も読んでいたはずですが、そのとき大きい感動と慰めを覚えたようです。 もう心配しなくてよい、信仰だけで十分だ。神からの使者、 そして神御自身であるイエスを認めるだけで十分ではないか。 これまでも義人は信仰によって生きてきたのだ。彼は、こう思ったに違いありません。ここから信仰のみと言う彼の思想が生まれました。
 「もっと罪を犯せ。されどもっと強く信じよ。」これも彼の言葉とされています。
 ルターは聖書を大切にしましたが、行いを欠く信仰は死んだもの、「行いが伴わない なら、 信仰はそれだけでは死んだものです。」(2章17節)というヤコブの手紙を軽く見て、「藁の書簡」と呼んだことでも知られています。
 彼は、先に挙げたローマ書の少し後に来る「神はおのおのの行いに従ってお報いになります。」 (2章6節)に気付いていたのでしょうか。わたしは、ルターは面白い聖書の読み方をする人だと思っています。
 少なくとも少し前の頃まで、カトリックはプロテスタントを評して、彼らは救いに必要なのは行いではなく、 「信仰のみ」であり、救いに必要な知識は「聖書のみ」であると言うと言っていました。 事実、ルターもその仲間たちもこの言葉を誇らしく幾度も使ったと思います。
 さて、カトリックの立場はどうかというと、人の救いに必要なものは、信仰のみではなく、信仰も、行いもともに必要であり、 神の啓示は、聖書と聖伝と、その両方に示されていると主張します。
 しかし、わたしたちは、プロテスタントが個人的信仰を強調するのに出会う時、そこ にわたしたちがなお学ぶべきことがあるのを認めるべきだと思っています。 カトリックの場合、秘跡と教会全体の強い信仰に安住して、自分の信仰を磨かない危険があるからです。
 すべてキリスト信者は、信仰と行い、また信仰と愛を対立的に考えるべきではありません。 かえって、お互いは補い合うものであることを知るべきです。 強い信仰があって、 長い間、神と人とを愛さないということは考え難いことではないでしょうか。
 ところで、宗教改革以来、どのようにして人は神の前に義とされるか、天国に入る資格を得るかが、常に、神学上の大問題でした。 今もなおこれは大問題ですが、カトリックとプロテスタントの双方の研究によって、対立の溝が埋められつつあるように思います。
 カトリックは昔から、特にトレント公会議から、人が義とされるためには、 神の恵みによって、中から清められ義とされる必要があるとしてきました。義認だけでは足りません。
 前掲のガラテヤの信徒への手紙の一句は、神学のためにも実践的な信仰生活のためにも大切な一句だと思います。