iՃbZ[W
ē
~Tƍu
̐lƉv
̂m点
ANZX
sʐ^ipj
TCgɂ‚N
愛は完全性の絆(キズナ)
コロサイの信徒への手紙3章14節
ラウレンチオ 小池二郎神父
  「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、 憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。 主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。
 これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。 また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。 この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。 いつも感謝していなさい。
キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。 知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。 そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、 イエスによって、父である神に感謝しなさい。」(コロサイの信徒への手紙3章12節-17節)
 上掲個所は、新約聖書の中でも最も美しい個所の一つで、 クリスマスの後の日曜に祝われる「聖家族」の祝日には、ABCの三年ともに、第一朗読で朗読されます。
 さて、今日は上掲3章14節〈これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです〉(新共同 訳)の中の〈愛は、すべてを完成させるきずなです〉について、 フランシスコ会聖書研究所訳とギリシャ語原文を見ながら、少していねいに見てみたいと思います。
 わたしが最初、この絆(きずな)に関心を持つようになったのは、ここは大変美しい個所ですが、 絆とか帯の具体的な役割が、いま一つはっきりしないと思ったからです。
 神学校で、愛は絆(ラテン語でヴィンクルム)、肝心(カンジン)・要(カナメ)の意味 だと教えられた記憶がありますが、なぜ、そうなのでしょうか。
 〈愛は完全さをもたらす帯です〉(フランシスコ会聖書研究所訳)。 帯が愛とかその他の徳に対して、あるいは共同体に対して、どのような役割を果たすのでしょうか。
 愛は、「完成の絆」(あるいは、「完全の帯」)。
 ギリシャ語原文では、“シンデスモス テス テレイオテトス”です。
 シンデスモスについて。
 デスモスだけでも縄、紐の意味がありますが、シンデスモスになると抽象名詞として、 意味が強いのだと思います。 「シン」は一緒という意味ですが、現在、身近なところでシンが使われている例は、 音楽に合わせて水中で演技するシンクロナイズド・スイミングとか、色々な楽器を同時に演奏するシンフォニー(交響楽)などがあります。
 かつて、聖ペトロは魔術師シモンに向かって「お前は腹黒い者であり、悪の縄目に縛られている」(使徒言行録8章23節)と言いましたが、 その「悪の縄目に縛られて」にもシンデスモスが使われています。
 ギリシャ語の辞書によると、シンデスモスは「二つ以上のものを一つにまとめる手段」で、紐、綱など。 環(ワ)という意味もあります。更に、前掲の使徒言行録からも推察できるように、抽象的ですが、[縛る]と言う意味もあるようです。
 さて、完成とか完全とかに訳される、テレイオテトスの方ですが、今回の場合はどう訳せばよいでしょうか。完全性の紐、あるいは絆、あるいは帯でしょうか。
 14節の直訳は、《そして、これらすべての上に、愛を、それは、完全性の帯です。》
 この完全性の帯、あるいは完成させる帯について、何をくくるかについて、二通りの解釈の可能性があると思います。
 第一の解釈は、わたしたち一人ひとりの色々な行為が、愛という帯でまとめられることによって、全体が、初めて永遠的な価値を持つようになる、という解釈です。
 第二の解釈は、わたしたちの行為が愛に優先されるとき、はじめて共同体に調和と一致を与え、共同体は完成に、あるいは完全な状態に導かれるという解釈です。
 わたしは、これまで、前者の解釈ばかり考えていましたが、今回、この小文を書いているうちに、考えが少し変わりました。すなわち、第二の解釈に傾きました。
 ここで、この帯は、何よりも共同体を一つにまとめる帯ではないでしょうか。 その根拠は、コロサイの信徒への手紙には、キリストとわたしたちとの結びつき(1:13)とか、 教会がキリストの体であり、 その完成のためにわたしたちが苦労する必要のあること(1:24)などが強調されているからです。
 コロサイの信徒への手紙を本当に書いたのは聖パウロではないという説もあります。 フランシスコ会聖書研究所の解説書を読みながら、 聖パウロがこの書の真筆者である可能性も大いにあると考えるようになりましたが、 今日はその問題を検討することができません。
 たとえ、真筆者が聖パウロではなかったとしても、コロサイの信徒への手紙が、聖書の一部であり、 聖霊の導きによって書かれたものであることを疑う理由は何もありません。
 さて、あなたは上掲の帯、あるいは絆が、何を縛るのか、何を束ねるのかについての解釈で、第一の解釈を選びますか、それとも、第二の解釈を選びますか。