iՃbZ[W
ē
~Tƍu
̐lƉv
̂m点
ANZX
sʐ^ipj
TCgɂ‚N
彼らに与える土地に導き入れることはできない
民数記20章12節
ラウレンチオ 小池二郎神父
 今回は、少し長くなりますが、民数記20章7節から13節までを転記します。傍線をつけた個所は特に注意してお読みください。
 「主はモーセに仰せになった。『あなたは杖を取り、兄弟アロンと共に共同体を集め、彼らの目の前で岩に向かって、水を出せと命じなさい。 あなたはその岩から彼らのために水を出し、共同体と家畜に水を飲ませるが良い。』
 モーセは命じられたとおり、主のみ前から杖を取った。そして、モーセとアロンは会衆を岩の前に集めて言った。 『反逆する者らよ、聞け。この岩からあなたたちのために水を出さねばならないのか。』モーセが手を上げ、その杖で岩を二度打つと、 水がほとばしり出たので、共同体も家畜も飲んだ。
 主はモーセとアロンに向かって言われた。『あなたたちはわたしを信じることをせず、イスラエルの人々の前にわたしの聖なることを示さなかった。 それゆえ、あなたたちはこの会衆を、わたしが彼らに与える土地に導き入れることはできない。』 これがメリバ(争い)の水であって、イスラエルの人々が主と争った所であり、主が御自分の聖なることを示された所である。」
 この引用個所のどこに、モーセとアロンの不信仰が述べられているでしょうか。
 わたしたちは、旧約聖書を読んでいて、理解し難いところにたびたび出会いますが、ここもその一つです。 聖書は状況の総てを説明しているとは限りません。 しかし神は「あなたたちはわたしを信じることをせずイスラエルの人々の前にわたしの聖なることを示さなかった。」 と二人を責めておられることが書かれているのですから、 まず、彼らが非難される理由が周辺に何かの形で示されているのではないかと探してみる必要があると思います。
 神はモーセに「彼らの目の前で岩に向かって、水を出せと命じなさい。」と命じられていますが、ここでは水を岩から出させるために、 杖で岩を打ちなさいとは言っておられない。 そうすると、モーセが岩に言葉で命令するだけではなく、杖を使ったことが非難されたのでしょうか。
 「彼(モーセ)は杖を振り上げて、ファラオとその家臣の前でナイル川の水を打った。 川の水はことごとく血に変わり川の魚は死に、川は悪臭を放ち、エジプト人はナイル川の水を飲めなくなった。」(出エジプト記7章20節―21節)
 また、モーセがエジプトを出てからラマという所に来て、苦い水を甘い水に変えます。 そのことを、出エジプト記15章25節は、「主は彼(モーセ)に一本の木を示された。 その木を彼が水に投げ込むと、水は甘くなった。」と記しています。
 それまで、モーセが奇跡を行なうために、木片や杖を使うことはむしろ神のみ旨でした。 今回の引用個所に、「モーセは命じられたとおり、主のみ前から杖を取った。」とありますから、 杖を使えという明言はないにしても、モーセが水を出すために、言葉以外に杖を使ったことが非難されるとは少し信じがたいことです。
 そうするとモーセが非難されたほんとうの理由は、杖を一度ではなく、二度打ったことにあるのでしょうか。
 しかし、モーセが非難された本当の理由は、杖で岩を打った回数などではなく、もっと、他のところにあるのではないかと考えました。
 わたしは聖書の解釈で困ったときには、よく最初に「フランシスコ会聖書研究所訳注」を読むことにしています。 その注(「民数記」145ページ)は「モーセとアロンの罪は、ここで正確にはわからない。 恐らく、モーセの名声に対する尊敬から、 彼らの罪の明確な叙述を故意に避けたのかもしれない。」と言っています。 また、その罪が何であったかの主な意見として次の二つがあると紹介しています。
 (一)モーセとアロンは岩に話しかけて、水を出すように命じられていたのに、人々に話しかけ、その上杖を使った。 (二)ヤーウェに逆らう民衆にヤーウェは果たして奇跡を行なうかどうかを二人は疑い、 最初に一度岩を打つだけでは奇跡は与えられず、二度打つことになった。 この(二)はわたしが多分最初に考えついた考え(上掲)に近いと思います。わたしの場合、二回続けて岩を打った情景を想像していました。
 (一)についてですが、詩編106番32‐33節が参考になります。 新共同訳は「彼らはメリバの水のほとりで主を怒らせた。彼らをかばったモーセは不幸を負った。
彼らがモーセの心を苦しめたので、彼がそれを唇にのせたからである。」 同じ個所のフランシスコ会聖書研究所訳は「かれらはメリバの水のほとりでヤーウェを怒らせ、そのためモーセは難にあった。 かれらは神の霊に逆らい、モーセは軽々しいことを言った。」
 とにかく、モーセの多分ただ一度の不信仰が、勿論、神について何もかも信じられなくなったわけではありませんが、 そのただ一度の不信仰が、彼を約束の地に入れなくしたのです。
 数ではダビデには及びませんが、モーセの名は旧約聖書に826回も出ます。ダビデは大きい姦淫の罪を犯しましたが、モーセはそのような罪は犯していません。
 彼ほど偉大な人物は旧約にはいないかもしれません。「神と人々に愛されていた。 モーセがその人であり、彼は祝福のうちに覚えられている。」 (シラ書45章1節) 「主は人がその友と語るように、顔と顔を合わせてモーセに語られた。」(出エジプト記33章11節)
 マタイ福音書のイエスの幼少物語は、イエスをモーセと比較し、イエスをモーセより更に偉大な人として描いた節があります。
 モーセは、40年間、イスラエルの民を苦労して導いたにもかかわらず、一つの不信仰の罪のために、約束の土地に入ることができませんでした。 このことはイエスほどに完全な人は他にいないということ、 そして、信仰が如何に大切であるかということ、この二つの真理を広く永く、わたしたちに教えているのではないでしょうか。
 今回の個所を、聖書の勉強の時間に、わたしと一緒に勉強していた一人の信者さんが、モーセが可哀想でならないと言いました。 その方は、聖書を通して、モーセの心境が良く分かったのだと思います。 しかし、この瑕(きず)にもかかわらず、モーセが受けた祝福の偉大さと名誉は決して消えるものではありません。