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命の木と善悪の知識の木
創世記2章9節
ラウレンチオ 小池二郎神父
 創世記で始まるモーセ五書を深く読むためには、それが主として四つの伝承、 ヤーウェ伝承、エロヒム伝承、祭司伝承、申命伝承から成り立っていることを知っていることが役立ちます。
 ヤーウェ伝承(J伝承)は、創世記2章5節から民数記24章までの骨子となっている伝承で、 神のことを主にヤーウェと呼びます。 エロヒム伝承(E伝承)は、北のイスラエル地方に伝わった伝承で、神を主にエロヒムと呼びます。
 申命伝承は申命記の主な伝承で、その元の写本が、紀元前622年、ヨシア王の宗教改革の始めのころ、神殿の掃除と修理を行なっているときに発見されました。
 祭司伝承は、創世記の最初の部分、世界が神によって六日間で創られ七日目に神が休まれたという話はこれに属しますが、 この名は、モーセ五書の編集者が祭司たちであったと考えられるところに由来します。

 今日取り上げた「命の木と善悪の知識の木」が出る4個所、創世記2章9節、同17節、 同3章2節、同22節はいずれもヤーウェ伝承に属します。 この個所が編集されたのはモーセ五書の中で、一番あとですが、伝承としては一番古い(紀元前9世紀)のです。 創世記の人間の創造の物語は二個所あって、 前者が祭司伝承、後者がヤーウェ伝承に属し、両者は少し食い違っていますが、 編集者はヤーウェ伝承の人間の創造をも是非とも聖書に残したかったのです。
 上掲の4個所は、カトリック教会の原罪の教えの大切な根拠になっています。
 人祖が善悪の知識の木の実を食べたことが、人間の罪の根源であり、病気や死、体と心の変調などの不幸な結果が、 例外なく後世にすべての人間に伝わる原罪となりました。

 (「カトリック教会のカテキズム」396番)〔神は人間をご自分にかたどって造り親しい交わりを結ばれました。 霊的被造物として、人間がこの親しい交わりを生きることができるのは、ただ、神に自由に服従することによってです。 これを表しているのが、 善悪の知識の木からは決して食べてはならない、と言う禁止です。 「食べると必ず死んでしまう」(創世記2・17)と、神は言っておられます。 「善悪の知識」(創世記2・17)の木は、被造物としての人間が信頼をもって自由に認め、 尊重しなければならない超えがたい限界を、象徴的に表しています。 人間は創造主に従属します。 創造の法則と、自由意志の行使を規制する道徳的規範とに従うべきなのです。〕
 (同上 399番)〔聖書は、この最初の不従順の悲劇的な結末を示しています。 アダムとエバは直ちに原初の成聖の恵みを失いました。 二人は、神は自分の特権だけを守ることに執着しておられるのだと誤解して、神を恐れます。〕

 さて、善悪の知識の木はどんな意味を持った木だったのでしょうか。この木が諸悪の根源となったので、 その善悪の知識は道徳的善悪についてではなく、 何か怪しい知識についてのことではないかと考えてもおかしくはありません。 しかし、その善悪の知識は、フランシスコ会聖書研究所の註解書などによると、 実際はそうではなく、 生と死、健康と病気、多産と不妊、将来の善と悪(幸福と不幸)など、 神がご自身と天使たちのためにとっておかれた知識のことらしいのです。 人間の知識には限界があり、その限界を素直に受け入れることを神は望んでおられます。 禁断の木の実の物語はその説明ではないでしょうか。
 通常の手段ではそれは乗り越えられないので、現在もそういう人がいるかも知れませんが、 昔の人間のなかには占いや魔術を使って何としてでも神の秘密を知ろうとする人がいました。 占いは聖書の他の個所(申命記18章10−11節など)で禁じられています。
 ヘブライ語で「占う」と「へび」とは同じ文字で表すそうですが、へびの姿を借りた悪魔が誘惑者であることは占いの誘惑と関係があるかも知れません。
 現代人には、BS細胞を使ってあらゆる臓器を作り出すこと (それについては、ゆるされる範囲があるかも知れません)、 あるいは、 遺伝子操作でスーパーマンやスーパーウーマンを作り出すこと(これは許されないでしょう)などの誘惑があります。 これらを実現するためには、倫理的規範を無視してでも、 必要な知識を得ようとする誘惑があります。 つまり、現代人も、エバの受けたのと同じかよく似た誘惑を受け続けているのではないでしょうか。
 現代のほとんどの人が、スーパーマンの製造などは許されないと考えています。 しかし、そういうことが起こらない保証は今のところどこにもありません。 そういう事態が続出しないためには、多くの人々が禁止を強く望まなければなりません。

 エデンの園の中央のもう一つの木、「命の木」は、「善悪の知識の木」とは別の木です。
 「女は蛇に答えた。『わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。 でも、園の中央に生えている木の果実は、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。』」(創世記3章2−3節)
 創世記2章9節の園の中央の木は複数ですが、3章3節の園の中央の木は「善悪を知る木」だけを指しています。 なぜなら前者の木は複数で、後者の木は冠詞付きの単数だからです。
 主なる神は、人祖を楽園から追放するとき、一応、難解な言葉を述べておられます。 「人は我々の一人のように (この我々は、天使を取り込んでの我々だとする説もあります)、善悪を知る者となった。 今は、手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となるおそれがある。」(創世記3章22節)と言われました。
 神は意地悪で、人間に命の木の実を食べさせないようにされたのか。そうではないと思います。 わたしは、ここに人類全体の救済の大きい秘密が隠されているように思うようになりました。
 第二の、そしてもっと力のある「命の木」はキリストの「十字架」であり、その果実はイエス・キリストの犠牲死による贖罪 (しょくざい)です。 人類は長くその木を待つことになったのです。大切です。