iՃbZ[W
ē
~Tƍu
̐lƉv
̂m点
ANZX
sʐ^ipj
TCgɂ‚N
愛は死のように強く
雅歌 8章6節
ラウレンチオ 小池二郎神父
8 恋しい人の声が聞こえます。
山を越え、丘を跳んでやって来ます。
9 恋しい人はかもしかのよう
若い雄鹿のようです。
ごらんなさい、もう家の外に立って
窓からうかがい
格子の外からのぞいています。

10 恋しい人は言います。
「恋人よ、美しいひとよ
さあ、立って出ておいで。
11ごらん、冬は去り、雨の季節は終った。
12花は地に咲きいで、小鳥の歌うときが来た。
この里にも山鳩の声が聞こえる。
13いちじくの実は熟し、ぶどうの花は香る。
恋人よ、美しいひとよ
 さあ、立って出ておいで。

14 岩の裂け目、崖の穴にひそむわたしの鳩よ
姿を見せ、声を聞かせておくれ。
お前の声は快く、お前の姿は愛らしい。」

8章
6わたしを刻みつけてください
あなたの心に、印章として
あなたの腕に、印章として。

合唱 一
愛は死のように強く
熱情は陰府のように酷い。
火花を散らして燃える炎。
7大水も愛を消すことはできない
洪水もそれを押し流すことはできない。
愛を支配しようと
財宝などを差し出す人があれば
その人は必ずさげすまれる。
(雅歌 2章8節‐14節、8章6節‐7節)
 以上は、教会の祈りの読書が、5月31日、聖母の訪問の祝日に読ませる個所です。
 全体が、恋愛の歌に聞こえるのではないでしょうか。このことについては後から少し触れるつもりです。
 本書のヘブライ語の表題は、「ソロモンの歌の歌」です。歌の歌とは最高の歌と言う意味です。 ラテン語でも、英語でも「歌の歌」あるいは「歌の中の歌」と訳しています。 日本語訳の「雅歌」と言う訳は中国語訳から借りたもので、いい訳だと思います。
 「ソロモンの」は後で付け加えられたもので、現代の聖書学者は、これは単なる文学的手法に過ぎないと考えています。
 雅歌は6つの美しい歌で構成され、花婿と花嫁の求愛が描かれています。 途中、幾度かエルサレムの乙女たちの合唱が挿入されるのも特徴の一つです。 これは古代悲劇の作法と同じで劇的効果をねらったものです。
 この書は、紀元前400年から330年にかけて、一人の著者によって書かれました。 一人で書いたと判断する理由は、登場人物の性格が終始一貫して変わらないこと、 同じエルサレムの乙女の集団が5回登場し、3個所で若者がゆりの花の間に姿を現し、2個所で若者が鹿にたとえられていることなどです。
 雅歌の男女の愛が何を表しているかが問題ですが、ホセア書とそれ以後の預言書は神とイスラエルの愛の象徴として夫婦の愛を取り上げています。 これに反し、雅歌には神の名さえ一度も出ません。
 雅歌はエロチックな恋愛歌ではないのでしょうか。
 ユダヤ教でもキリスト教でも雅歌を正典目録からはずす大きい試みは一度もなかったようです。
 ユダヤ教の有名な律法学者ベン・ヨゼフ・アキバ(50-135)が、紀元90年にヤムニヤで開催されたユダヤ教の会議で、 「聖書のどの書も聖なるものであるが、『雅歌』は、それらのうち最も聖なるものである。」と言っています。
 現代の多くの学者は、花婿はイスラエルを愛するヤーウェであり、 花婿はヤーウェを唯一の神とするイスラエルの民であるとする比喩的解釈の立場を取っているようです。 しかし比喩的解釈をする人の中には、花婿と花嫁に、キリストと教会、あるいは神と聖母、あるいは神とキリスト信者の霊魂を当てはめる人もいます。
 聖書学では、「文字通りの意味」の決定が重要です。 しかし、雅歌の中の若い女性の文字通りの意味が、たとえイスラエルの民であるとしても、 それを聖母や信者の霊魂に置き換えても、この個所の本来の意味から離れるものではないと考えられるのではないでしょうか。 なぜなら、 聖母もイスラエルの重要な一員であり、さらに新しいイスラエルの象徴でさえあるからです。 また、一人の信者の霊魂も新しいイスラエルの重要な部分と考えることができます。
 紀元一世紀末、ユダヤ人は雅歌の男女の愛を霊的な比喩として解釈していました。 それだから、この書がユダヤ教でも正典目録に難なく入れられたのでしょう。 そうで なければ、この書は通俗書となって正典には数えられなかったかも知れません。
 キリスト教でも、偉大な教父オリゲネス(185-254)は、この書の男女の愛を比喩的だと考えました。
 わたしも今のところ雅歌の男女の愛とか求愛を比喩的に考えています。しかし最近の学者の中には、雅歌の男女の愛の表現を愛の賛歌と考える人もいます。
 雅歌の中にはエロチックと言えなくもないところがありますが、イヤラシイ所は一個所もないのではないでしょうか。
 イエス・キリストが、秘跡の位にまで上げられた結婚の男女の愛が好ましいものであるなら、 その愛の賛歌が聖書に一つくらいあっても良いという考えが成り立ちます。 仮に、雅歌の愛が人間同士の愛だとしても(実際にはそうとは思いませんが)、 雅歌の愛が、「より充満した意味」(英語では、モー・ザン・リテラル・センスと言います。 今、わたしは「先の意味」と訳したい気がします)では、神と霊魂との愛であると考えることができます。 勿論、それを真っ先に、 神と聖母の愛を示すものと考えることも出来ます。教会はそう考えて、この個所を「聖母の訪問」の祝日の読書としたのでしょう。
 死はすべての権力者をも生活者をも無条件に沈黙させる力を持っています。 雅歌の目的は、この死よりもさらに強い愛へ読者を招くことではないかと思います。
 新約の立場から雅歌を読むとき、イエス・キリストへの愛が凡庸なものであってはならないことを考えさせられます。