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復讐してはならない
マタイ(5:38−48)
ラウレンチオ 小池二郎神父
 少し長くなりますが、今日、ご一緒に考えたい個所を省略せずに引用します。
 「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。 しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。 だれかがあなたの右の 頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、 上着をも取らせなさい。
 だれかが、1ミリオン(1480メートル)行くように強いるなら、一緒に2ミリオン行きなさい。 求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。
 あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しか し、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。
 あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、 正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。 自分を愛してくれる人を愛したところで、 あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。
 自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。 異邦人でさえ、同じことをしているではないか。 だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」(マタイによる福音5章38節‐48節)

 『目には目を、歯には歯を』と命じられている。 これを命じたのは、ハムラビ王(バビロンを首都とする大帝国を作り、バビロニアを政治的・文化的に統一し、 「ハムラビ法典」を制定した。 ハンムラビとも言う。在位前1729〜前1686。一説に前1792〜前1750)です。
 この命令は、法制史上、画期的で、多くの国の現行法にも生かされています。 しかし、新しく始まろうとしていた主イエスのメシアの国では、この理念もまだ十分ではありませんでした。
 イエスが弟子に求められたことは、復讐しないだけではなく、赦すことでした。 その寛大さを分かりやすく知らせるために、 「だれかがあなたの右の頬を打つなら、 左の頬をも向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。」(39節‐40節)と言われたのだと思います。
 しかし、イエスのわたしたちへの思いは、赦すだけではまだ足りません。
 「しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(44節)そして、この祈りには、迫害する者を祝福することまでが含まれているのです。 ルカが伝えるイエスの言葉は次の通りです。「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。 悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。」(ルカによる福音6章28節)
 聖パウロは、「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。 祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。」(ローマの信徒への手紙12章14節)そして自らもそれを実行しています。 「(わたしは)侮辱されては祝福し、迫害されては耐え忍び、 ののしられては優しい言葉を返しています。」(コリントの信徒への第一の手紙4章12節〜13節)
 わたしは、昔、フランス革命(1789〜1799)の少し後におこった次の出来事を、何かの本で読みました。 あるカトリックの司祭が、告解を望んでいる危篤の病人を訪ねるためにパリの屋根裏に案内されました。 司祭は、告解の前だったか途中だったかは覚えていませんが、 病人は、司祭が少年の頃、自分の家で働いていた召使で、革命中に父親を殺害した犯人であることに気付きます。 司祭は全身に震えを感じますが、自分と闘いながら、赦しを与え、聖体を授けました。 司祭が、その家の少年であったことを病人に告白したかどうかは覚えていませんが、 神が、自分の言葉をとおして赦しを与えた犯人を、自分も赦そうと必死に努めたことは間違いないでしょう。 そして、一生、赦しの重さ、深さ、高さを心の奥底で感じ続けたことでしょう。
 ハムラビ王からでも約二千年、それまでの旧約は数十万年以上の長い時代です。 その長い時代の人類のだれにも知らされずに、神が人となられた主イエス・キリストの到来を待って、 神がわたしたちに示され求められる新しい掟、 「敵を赦し、敵のために祈り、敵を祝福する」ことを示されました。 この新約のおきては、また福音とキリスト教の大黒柱だと思います。
 まじめに、自覚的に、敵を赦すことに挑戦するキリスト信者の数が増えれば、キリスト教は世界を変えることができるでしょう。
 良い意味でも、悪い意味でも、キリスト教に慣れっこになっているわたしたちは(幸い、あなたはそうではないかも知れませんが)時々、 自分は敵を赦しているだろうか、あるいは赦せるだろうか、祝福できるだろうかと反省する必要があるのではないでしょうか。
 もっとも、次のことを考えておく必要があります。
 悪そのものは赦せませんし、祝福することも出来ません。悪を祝福したら、こちらが悪い人になります。 しかし、神は、私たちの信仰によれば、人を、例外なく、良いものとして造っておられるので、 「普通、憎むべき人と思われる人も、少なくともその人が生きている限り、 一番深いところ(それは、普通はだれにも見えません)は美しい」ということです。