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何よりもまず、神の国とその義を求めなさい
マタイ6章33節
ラウレンチオ 小池二郎神父
 「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。 命は食べ物よりも大切であり、 体は衣服よりも大切ではないか。空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、 倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。 あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。 あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。」(マタイ6章25節‐27節)

 思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。 「寿命をわずかでも延ばす」の寿命に当たる原文は、ギリシャ語のヘリキアで、寿命とも背丈とも訳すことができます。 「わずか」でも延ばすの「わずか」のギリシャ語は、ペクス、すなわちキュービット(約45センチ)ですが、これは、寿命の長さにも、身長の高さにも使うことができます。 ここで、ヘリキアが、身長を表しているなら、ペクスは約45センチの意味になりますが、誰も身長が45センチも伸びることを期待しないでしょうから、 ペクスを身長の長さとするのは不自然です。 従って、「寿命をわずかでも延ばすことができようか」(新共同訳)の訳が良い訳だと思います。
 科学的知識と医療の飛躍的向上によって、平均寿命は大変長くなりましたが、長くなったのは平均寿命であって、個人の余命を正確に予測することは今もできません。 人一倍体に気を遣っている人が、思いがけないときに他界する例は珍しくありません。

 「なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。 しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。 今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。 まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。 だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。 それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、 これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。 何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。 だから、明日のことまで思い悩むな。明日のこと は明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」(マタイ6章28節‐34節)

 わたしは三月のパレスチナにいたことがありますが、咲き乱れる野原の草花が大変印象的でした。 その時、案内をしてくれたイタリア人の聖書学者が、 イエス様が「野の百合を見なさい」と言われたときの「野の百合(ゆり)」は一種類の花のことではなく、 野に咲く花の総称だったと説明してくれました。 新共同訳の「野の花」に当たるところです。 ヴルガタ訳のラテン語聖書ではリリア(ゆりの複数)、ギリシャ語聖書でもクリナ(やはりゆりの複数)ラゲ神父訳文語聖書も「野のゆり」、 プロテスタントの「新改訳聖書」も「野のゆり」となっています。現在、アテネの花屋でクリナと言えばゆりの花をくれるそうですが、クリナにはもっと広い意味もあるようです。 しかし、ここで何よりも注目したいことは、イエス様が、ソロモンの宮廷のどんな華麗な装飾よりも、野の花のほうが美しいと思われたことです。

 引用句の「神の国と神の義を求めなさい」で始まる最後の数節は、山上の垂訓のハイライトではないでしょうか。
 しかし、神の国と神の義を求めるとは何の意味か、少し難しく思われますが、わたしたちが愛し合うとき、部分的にですが、すでに神の国が来ていると考えてよいと思います。 また、神の義は、イエス・キリストを思いながら、わたしたちが具体的にしなければならないと気付くことと言い換えてもよいと思います。 わたしの意見ですが、わたしたちに求められていることは、毎晩、これらを成し遂げたという確信を持つことではなく、求め続けることです。

 一見クリスマスに関係ない言葉を書きましたが、イエス・キリストは、このようなメッセージを伝えるためにもこの世にお生まれになりましたから。