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『喜びと感謝の信仰を取り戻そう』
ラファエル 松本武三 神父
 「回心して、福音を信じなさい」と灰の祝福をいただき、ご復活に向けて四旬節に入りました。 「灰」は、再生のしるしです。誰もが知っている日本昔ばなしの「花咲か爺さん」の話しを思い起こします。
 昔むかし、やさしい爺さんが、「白(殺された犬の名前)や、天国で幸せになっておくれ」と願いながら、 灰を撒くと、灰が木に降りそそぎ、木に花が咲き、通りがかったお殿さまが、「見事な花じゃ」と褒めます。 それを見た欲張り爺さん、俺もとばかりに、灰を撒き散らします。すると、灰がお殿さまの目に入り、 こっぴどく叱られると言った話ですが、この話、昔ばなしどころか、今の私たちの姿そのもののように思いませんか。
 人は皆、毎日だいたい同じようなことをしながら過ごしているのに、やさしい爺さんのような私もあれば、 いじわる爺さんのような私もある。花が咲き喜ぶ私もあり、花が咲かない私もある。 いやむしろ、花の咲かない私が多くなっている。少なくとも私はそうです。

 それで神さまは、灰のミサで、花を咲かせるやさしい爺さんの心を取り戻し、信仰の喜び、感謝の心を育てなさいと招いてくださったのです。 だから、やさしい爺さんのように、生活の慣れ、驕り、不満、不安、怠けご心から、新たな気持ち、 喜び、意欲、感謝の心を取り戻し、イエスのよき協力者としての愛の信仰が育つように、 「イエスさま、あなたがいてくださるから、何があっても負けない、幸せ」と、喜びと感謝のご復活祭を祝えるように、 洗礼志願者の新鮮な心に倣い、思いやりのある、あたたかい愛の信仰を取り戻せるように祈りましょう。

 四旬節に入ると、十字架の道行きの祈りが捧げられますが、十字架の道行きの祈りは、ペトロの生きざま、 イエスの弟子の歩みそのものです。「たとえ、みんながあなたを捨てても、わたしは決して離れません」と、 大見得をきった弟子たちが、イエスが捕らえられると、みんなイエスを見捨てて逃げてしまいました。 でも、復活されたイエスに出会い、目が開かれ、今度は、イエスのために命をささげる、愛の証し人に成長しました。
 だから、イエスさま、弟子たちの生きざまに倣い、私も生活の中で、愛の業、信仰の祈りの花が咲くように頑張りますといった心の思いが、 十字架の道行きの祈りの心でもあるのです。
 祭壇はイエスの死の贖いの食卓です。その救いの恵みにふさわしく預かることが出来るように、 壁に、十字架の道行きの絵が飾られているのです。あなたの命の糧、聖体をいただける、何と有難いことと感謝出来るように。  
(ゲッセマネの祈り)
(十字架を担うイエス)
20年ほど前に、はまぐりの貝殻に、描いた、自分でもよく描けたと大切にしている作品です。