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松本神父の「聖書のひとりごと」
『 主は、わたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう』(イザヤ2・3) 
道を示される。
どんな道?
それはインマヌエルの道。
インマヌエルとは、一緒にいてくださる神さまの意味。
そうか、道を示されるとは、ご自身を現されることなんだ。
だから、幸せなことに向う道と言うより、もっと平凡な道。
一緒にいるだけでいい、一緒にいるだけで幸せと言った愛の道。
それで信仰は愛といわれるのだな。
それがクリスマスの恵みなのだ!
救い主を迎える幸いな喜びなんだ!
『「神の家に行こう」と言われて、わたしの心は喜びにはずんだ。』(詩篇122・1)
 
落盤事故で地下に閉じ込められた人が、地上と交信がとれた時、この詩篇の言葉のように、肩を抱き合って、喜び踊ったことだろう。
大病を患い、死を覚悟したのに、奇跡のようによくなった時、ベットの中で、また、ミサに行ける、嬉しい!
そんな心が、平凡なミサの中で、育つといいなあ。
苦しみは、喜びの序曲。
典礼の終わりの「王であるキリスト」の主日に、神の家に集い、喜び、はずむといいなあ。
『 神に従う人は、七度倒れても、また起き上がる。』(箴言24・16)
あきらめ、すぐ切れてしまう今の時代の私たちへの励ましの声。
雨上がりの虹のようだ。
一週間は七日。
七と言う数字は、完全ないっぱいの心。
あなたの生涯における倒れてしまうような悲しさ、辛さが何度起こっても、その度にまた立ち上がり、新たな心でスタート出来るんだよと諭してくださっている。
そんなこと出来るかなって?
それが出来るんだな。
神を信じ、好きになって、神に喜んで従う人には。
その模範、殉教者は、倒れるどころか、命を奪われようとも、神が立ち上がらせてくださると信頼し、神に命を委ねたのですから。
すごいね。
『 忍耐によって、あなたがたは命を勝ち取りなさい。』(ルカ21・19)
甲子園の球児たちは、今年も、たくさんの感動、喜びを与えてくれました。
見る人を惹きつける、あの直向きなプレーは、死ぬほどきつい練習の汗を流しながら磨いてきた努力の結晶なのだろう。
甲子園の球児たちは、全国の多くの球児たちの、地に這う根に支えられているからこそ実る花。
忍耐は、花を咲かせる根っこの命の営み。
イエスさまは、私たち一人ひとりの幸いな花は、地の中の根っこのような、忍耐のかくれた愛の祈りによって、育つのだよ。
「頑張って」と励まして下さっている。
感謝!
アーメン。
『 娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。』(マルコ5・34) 
何と喜ばしい言葉。
わたしの信仰はどうだろう。
神に委ねることから、いただく平安よりも、自分に頼る祈り、何か形式的で驕った祈りのような気がする。
普段の時は、それで済んでいるのですが、困難なことが起こると、たちまちうろたえて、祈っても、不安で落ち着かず、神により頼むよりも、人に頼り、愚痴る。
あのイエスさまなら、わかってくれると、信じて、誰にも知られないように、そっとイエスの服に触れる女に倣い、ミサの時、自分の心のうちの思いを、聖体のイエスに委ね、心から拝領し、「行きましょう。
主の平和のうちに」の司祭の言葉に、「神に感謝!」と答え、安心出来ますように。
アーメン。
『 イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、賛美の祈りを唱えられた。』(ルカ9・16) 
人里離れたところで、時を忘れイエスの話を聞いている何千人もの人々。
日が傾きかけ、イエスは弟子に、「彼らに食べ物を与えなさい」と言われた。
弟子はビックリ仰天。
五つのパンと二匹の魚しかないのに。
とんでもない。
しかしイエスは、その僅かなパンを取り、御父に賛美の祈りを唱えられた。
何と、何千人もの人々が、食べて満腹した。
人の世は、食べ物に溢れていても、魂は満腹出来ず飢えている。
イエスは、極僅かな食べ物で、すべての人の魂が満腹し憩う、愛のパン、聖体の秘蹟を残された。
主よ、小さな聖体を食べて、満腹出来る、一粒のからし種のような愛の信仰が、わたしにも育ちますように。
アーメン。
『 マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた』(ルカ2・19) 
心に納めるとは、ともに歩み、生きること。
言葉、声、出来事、思いに心をとめ、付き合うこと。
マリアさまは、羊飼いや東方の博士たち、老シメオンのわが子イエスへの振る舞いを、幼子イエスとの日々の暮らし、 子育ての中で、心に問いかけられ、次々とやってくる困難、苦しみを、大きな希望、喜びの糧にされ、強く、逞しく生き抜かれた。
マリアさま、幼子を慕うことが、幸いな道であることを、私にも教えてください。
『 イエスは弟子たちと一緒に、ゲッセマネというところに来て祈られた』(マタイ26・36) 
ゲッセマネと言う言葉を辞典で調べて驚いた。
ヘブル語で「油しぼり」。
そうかイエスは人生の最後の夜、世の終わりまでのすべての命を、わたしをも、清め、癒し、祝福するための聖なる油を搾ってくださっていたのだ。
何と有難いこと。
だから、こんなわたしなのに、喜んで過せているのだ。
ペトロがイエスを慕ったように、「イエスさま、大好き」と素直に言えるように歩み続けたい!
『 あなたの神なる主を礼拝し、ただ主のみに仕えよ』(ルカ4・8) 
悪魔の誘いに、毅然と答えたイエスの言葉。
でもわがままな私。
恥ずかしながら、正直なところ、主を礼拝するも、主に仕えるどころか、主を自分の勝手な願いに、仕えさせようとあくせくしている。
つまり、悪魔に負けているのだ。
結果、いつも平安と感謝の心を失い、不満と苛立ちを掴んでしまっている。
『 Let it Be (み旨のままに)』(ルカ1・38)
『 この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にした時、実現した』(ルカ4・21) 
昨年、ビートルズのCDが、リフレッシュされ話題になった。
その最後のCDのタイトルが、マリアが天使に答えた言葉「Let it Be」。
その時、マリアのお腹に神の幼子イエスが宿られた。
そして30年後、そのイエスが、人々に厳かに「今日、聖書の言葉を耳にした時、実現した」と宣言された。
信仰とはマリアに倣うこと。
次々と 困難、悩みに振りまわされる私たちですが、ミサにあずかる時、マリアさまに倣って、「Let it Be」、み旨のままにと、幼子の委ねの心を取り戻す幸いな信仰者であれますように、アーメン。
『 漁師のシモン(ペトロ)と兄弟アンデレが網を打っているのをご覧になり、イエスは「わたしについて来なさい。 人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。』(マタイ4・18〜20) 
すぐに従える出会いは、どんなまなざしだったのだろう。
イエスは二人に何を見たのだろう。
後年、自分を捨て、裏切る二人の弱さの中に、倒れても、倒れても、また起き上がり従う、純粋で単純な誠を見られたのだろうか。
二人も何処へと尋ねもせず、ただただ、イエスのまなざしに惹かれ、己が命の火を灯されたのだろう。
召命の世界は愛の世界。
喜んでの世界。
純粋な喜びの世界。
そう言えば、洗礼を受けて、一年ほどして、司祭になりたいと心に思った時、仕事を辞めて神学校に飛び込んだ。
どんなものか、どうなるかわからないのに。
『 見よ、おとめが身ごもって男の子をうむ。その名はインマヌエルと呼ばれる。 その名は、「神は我々と共におられる」という意味である。』(マタイ1・23) 
仲いい時はベタベタ。
いやになったらサヨナラが人の世。
神さまにだって、たいていは、苦しい時はお助けくださいと叫び、終わると知らん顔だもの。
それで「信仰は愛」と言われるんだ。
アツそうだ。
幼子は、マリアさん、ヨゼフさんがいつも一緒にいてくれるから、うまやでも、エジプトへの逃避の旅でも、すやすや眠られたのだ。
神さま、どんなことがあっても、一緒にいてあげるから安心して。
一緒にいるのが嬉しいの。
後に、「人の子は枕するところもない」と言われたイエスに、どうぞ、安心してお休みください、 わたしが代わってお手伝いしますからというのが愛の信仰なんだな。
そんな信仰が育つと嬉しいな。
メリークリスマス!
『 地震の後に火があったが火の中にも主はおられなかった。火の後に静かな細い声が聞こえた。』(列上19・12) 
司祭年のことを知り、自分の叙階の時、記念のカードを思い出した。
へたなスケッチに、八木重吉の詩とエリヤの言葉。
どうしてこの言葉を選んだのか
あれから35年の時が流れた。
中途半端な生き方の弱い司祭ながら、この言葉が自分を鼓舞してくれる。
そして、ますます、この言葉にひかれ、力を引き起こしてくれる。
この言葉を忘れない限り、イエスさまは、こんなわたしをも使ってくださる。
そう思っている。
もう死にたいと嘆くエリヤをさとし、導く神の声を、聞き取るエリヤの姿は、司祭として生きる、わたしのお師匠さん。
失敗すればするほど、神により頼める司祭でありたいと願っている。お守りください。 アーメン。
『 過ぎ越しの食卓は、どこに用意を。水がめを運んでいる男に出会う。その人について行きなさい。』(マルコ14・13) 
水がめは、清めの水を入れる器。
聖体の生まれる食卓は清めの場。
聖堂の聖水も清めの器。
聖霊は清めの火。
清められる尊さ、赦し赦される癒しのあたたかさのある祈りの聖堂を育てたいもの。
水がめを運ぶ男とは、仕える愛の姿。
「仕えられるより、仕えることを」の教会のスローガンは、水がめを運ぶ男の姿でもあろう。
それを見失っている私。
皆さんは如何?
イエスの最初の奇跡は、水がめを運ぶ人を通して、おいしいワインが用意されました。
教会のミサの有難さは、参加する私たちが、誰かの清め、癒しの水を運ぶ心になること。
その隠れた心の祈りのうちに命のパン、聖体が生まれるのですね。
アーメン。
『 弟子たちは皆、婦人たちやイエスの母マリアと心を合わせて熱心に祈っていた。 』(使徒1・14) 
すごい!お腹痛めて産んだわが子イエスをこともあろうに裏切り、十字架の死においやった弟子たちと、マリアさんは、心を合わせて祈られた。
これこそ、神の業、奇跡だ。
だって、それが出来なくて、苦しんでいるのがこの世の私たちの世界だから。
わが子を殺された被害者の母が、加害者を決して赦せなくて、嘆き悲しんでいるニュースをよく耳にするもの。
この母マリアと弟子たちの心を一つにした祈りのうちに、聖霊がくだり、教会が誕生したのだ。
ちょっとしたことでも赦せない、小さな私。
マリアさん、あなたの深い愛の雨を、私の魂に注いでください。
アーメン。
『 その子ロバをほどいてどうするのか。「主がお入り用なのです」。すると、許してくれた。イエスはそのロバに乗って、エルサレムに入られた。』(マルコ11) 
「主がお入り用」。
何と力ある言葉。
イエスさまは呼んでくださっている。
「私をお使いください」のマリアさんに倣いたいもの。
繋がれたロバとは私たちのこと。
お金に、欲に、罪に縛られている。
イエスさまは、イエスさまの言葉は、そんな私たちを解き放ってくださるのだ。
洗礼の恵みのことだ。
信者とは、イエスさまを乗せる幸いなロバなのだ。
私というロバに乗られたイエスさまを殺す私ではなく、 復活の喜びを新たに、イエスさまに喜んでお仕えする私として頑張ろう。
アーメン。
『 わたしは死ぬばかりに悲しい。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに。』(マタイ26・38〜39) 
何と気高いイエスの魂!
わたしなど、そんな辛い悲しみを知らないばかりか、知ろうともしないボンクラ。
そして、苦しくなると、たちまち御心を捨てて、自分の思いのままに勝手な願いばかり。
イエスはまるで違う。
苦しくなればなるほど、愛が深まり、確固たる信頼のうちに、仕え、御父に委ねられる。
イエスの公生活のはじめの荒野の試練と人生の最後の夜のゲッセマネの試練はどうだ!
まさに明けの明星、光り輝かれる。
イエスさま!
失敗して、苦しむほど、強くなれるわたしにしてください! 
『 「汚れた霊がイエスを見て「神の聖者だ」と叫び、イエスから離れた。』(マルコ・1・25) 
なんと悲しい魂よ。
普通、聖なる方に出会うと、有難く、その心に倣いたいと思い、ともにいてくださるように願うもの。
なのに、その聖なる方を跪かせたいと思う驕った孤独な魂よ。
マタイの4・4で、悪魔はイエスに言う。
「わたしに、ひれ伏して拝むなら、世の栄華を与えよう。」と。
私たち誰もが、その汚れた霊に身を任せている弱い者。
また、ヨハネの13・27で、「ユダがパン切れを受け取ると、悪魔が彼の中に入った。」と
だからこそ、「黙れ、出て行け」と言われたイエスのことばは有難い。
主よ、わたしのうちの汚れた心に、 「出て行け」と言って、清めてください。
『 「サムエルよ、サムエルよ。」主よ、ここにいます。お話しください。僕は聞いております。』(Tサムエル・3) 
ああ、何と澄んだ素直な聞く心、仕える姿勢だろう。
それにくらべ、何と傲慢な驕る我が身であることか。
それ故、少年サムエルは偉大な預言者へと高められ、我が身はちっともかわらず、むしろ衰えるばかり。
知らず知らずに「仕えられる」欲がはびこり、「仕える」愛の心を失っているのだ。
だからいつも心に不満、不安が。
せめてミサの時、サムエルのような心で、み言葉を聞く心があれば、きっと、言葉が、生きた命になって、魂に響くにちがいない。
そうでありたい。お導きください、主よ。
『 幼子を布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。 』(ルカ2・7) 
飼い葉とは家畜のエサ。
その家畜のエサ箱に、幼子はすやすやと眠っておられる。
馬屋は、人間の奴隷として、ムチ打たれ、重い荷物ひかされ、使われ、そのあげく殺され、人に食べられる運命の、家畜の唯一の自由な憩いの家。
その家畜が人に仕えるためのエネルギーが飼い葉。何だか家畜の生きざまは、イエスさまの生きざまに似ている。
人に仕え、病人を癒し、罪人を赦し、盲人の目を開けられるイエスさまは、殺され、今、ご聖体として、信者に食べられている。
飼い葉桶の幼子を礼拝するクリスマスは、人に仕える愛のパン、幼子をいただいた恵みに感謝し、幼子を喜んで育てる親になる喜び、家族の分かち合う幸いな祝いなんだな。
『 皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。 』(ルカ20・25) 
権力の王には、民としてのつとめの税を、愛の王には、王に愛される子として、愛でもって、感謝しなさいということなのかな。
だって、神にお返しすることなど何も無いもの。
「命ありがとう。あなたの望みにこたえられる命であれるように、喜んで感謝してすごしたい。
いつか、あなたが迎えに来てくださる時、生涯の命を喜び、「ありがとう」と感謝して、お返しできますように。
ルカ15章の放蕩息子のたとえと、23章の十字架上の犯罪人の箇所が、心に浮かんだ。
やはり、愛のイエスさまには、「イエスさまが一番」と、愛でこたえること、それしかない。イエスさま、それでいいですか。
『 わたしは歌おう、わたしの愛する者のために、そのぶどう畑の愛の歌を 』(イザヤ5・1) 
何と心躍る言葉だろう。
まるで、ロメオが愛するジュリエットのために、窓辺でギターを手に、愛の歌を唄っているようだ。
きっと、イエスは悲しんだり、沈み込んだり、くよくよしている私のために、 いつも、元気を出そうよ、もっと楽しく、喜んで汗を流して一緒に働こうよと励ましてくださっているに違いない。
せめてミサの時、ロメオに倣って、イエスさまのために、マリアさまのために、ヨゼフさまのために、 皆のために、心から、愛の歌を唄ってあげないと申しわけない。
いやお義理の歌など喜んでくださらない。
心からの愛の歌になるように、天の畑、ぶどう畑の収穫のために、働く汗を喜んで流さないと。
『 主は、カインに出会う者がだれも、カインを撃つことのないように、カインにしるしを付けられた 』(創世記4・15) 
弟アベルを殺してしまったカインが、エデンの園から追放される時、急に弱くなり、主にすがった。
その時、主はカインにしるしをつけられた。
どんなしるしだったのかな。
きっとカインは、そのしるしを見るたびに、自分の愚かさと主の有難さに、明日への希望を感じたことだろう。
主のしるしは、何と有難いこと。
「神のしるし」は、きっと、あの放蕩息子を抱きしめる親のあたたかな力強い腕のようなものに違いない。
わたしも十字架のしるしを受け教会に受け入れられた。
44年前の受洗の時、涙がこぼれて有難く思った。
主よ、わたしも生涯、十字架のしるしをする時、平安と有難さを知る者であらせてください。
アーメーン。
『 渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。なぜ、飢えを満たさぬもののために、  労するのか。耳を傾けて聞き、魂に命を得よ。』(イザヤ 55) 
今の世は、食べ物に溢れ、お腹は満腹できるのに、心が渇き飢えている。
なのに、イエスは、お腹が空腹で死ぬほど飢えていても、魂は満たされておられる。
どうして。
ある時など、多くの人々が空腹になった時、弟子は、こんなに大勢の群集では、ここにある「パン五つと魚二匹」だけでは、何の役にもたちませんとイエスに言った。
でも、イエスは違った。
そのわずかなパンと魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱えられ、弟子に渡された。
何とみんな満腹した。
いつも神の言葉を食べ、感謝されているからだ。
今の世の私たちは、自分の欲、人の欲に耳を傾け、惜しみなく湧き出る、命の水の清さに心の耳を傾けないから、飢え渇いているのだ。
あなたの声を聞いて、満たされる幸せを学びたい!
『 鳩を売る者たちに言われた。わたしの父の家を商売の家としてはならない。』(ヨハネ 2)。
イエスが、エルサレムの神殿に入られた時、牛や羊や鳩を売っている者や両替している者でごったがえしているようすを見て、祈りの心がないのを嘆かれ悲しまれたのです。
自分たちの願いのために、犠牲になる動物たちへの思いがないのに。
だから、人間の願いに、愛を注がれる神、イエスが来られても、誰も気づかないのだ。
かつて、イエスが赤ん坊の時、そのエルサレムの神殿に母マリアに抱かれ祝福を受けた時、鳩がイエスの代わりに犠牲になりました。
「わたしのために、死んでくれて、ありがとう。」
小さなものに目を注がれ、いつくしまれるイエスの愛のまなざしの原点です。
その心から、有名な讃美歌が生まれました。
「 His Eye is on the sparrow 」。
かれの目は雀のうえに注がれん。
すさむ悲しみの今日、この讃美歌をこころから歌い、祈りの心を取り戻したいものです。
『 わたしは天から降って来たパン。このパンを食べる者は永遠に生きる。わたしを食べる者はわたしによって生きる。』(ヨハネ 6)。
イエスのパンとはどのようなパンなのだろう。
イエスは公生活の前に荒野で、40日の断食をされ、悪魔の試みにあわれた。
その折り、死ぬほどの空腹にもかかわらず、その誘いに打ち勝たれた。
きっと体を満たすパンよりも、魂を満たす天の父の命の言葉のパンを食べておられたからだ。
だから、「人はパンで生きるにあらず、神の口からでる言葉によって生きる」と言われたのだ。
そう言えばコルベ神父も、アウシュビッツの強制収容所で、餓死刑にあわれたのに死なず、最後は毒の注射をうたれ殉教された。
きっとコルベ神父は、神の言葉のパンを食べ、飢えに勝たれたのだ。
イエスさま、あなたの命のパン、聖体をいただくわたしも、苦しいとき、あなたに守られ、強く、喜んで生きられるものにしてください。
『 天使は言った。「神にできないことは何一つない。」マリアは答えた。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」天使は去って行った。』(ルカ 1・37-38)
信仰とは、できないことは何一つない、何でもできる神さまに、すべてをゆだねる平安、幸いな心、生きざまのことを言うのかな。
言うは易く、行うは難しだけれど。
聖書のマリアさんは、親にすべてをゆだねる幼子のように、天使の声に、謙遜に、きっぱりと答えている。
30余年後、我が子が十字架上で殺される時でさえも。
すごいなあ。
年をとれば取るほど、苦しくなればなるほど、マリアさんに倣えますように。
5月は聖母月、マリアさんに賛美の歌をささげます。アーメン。
『 週の初めの朝早く、マグダラのマリアは墓に行った。
イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」 
後ろを振り向くと、イエスが立っておられたが、イエスだとは分からなかった。
イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、「ラボニ」と言った。』 (ヨハネ 20・15-16)
はじめマグダラのマリアはイエスが分からなかった。
きっと、体はイエスの方を向いていたのですが、心が向いていなかったのです。
忙しなく過す私たちの姿です。
心が向かない生活は、一生懸命していながら、むなしさと疲れが溜まります。
呼びかけられ、ハッとして心が向いた時、驚きと喜びが弾けます。
マグダラのマリアの復活の話しは、生活に追われる私たちへの、神さまからの愛の呼びかけです。 何か弾む希望が生まれる私たちでありたいものです。
『 人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つひとつの言葉によって生きる。』(マタイ 4・4)
困難や苦しさに負けそうな私たちを励ますために、イエスさまは、飢えられ、父への愛のパンだけを頼りに、荒野の悪魔に会いに行きます。
すると悪魔は、たくみに聖書の言葉を使ってイエスを試みます。
イエスは、「退け、サタン」、「主を拝み、主に仕えよ」ときっぱりと答えます。
悪魔もイエスも聖書の言葉を使います。
何処が違うのでしょう。
悪魔には愛がなく、イエスには、その愛に溢れているのです。
私たちの信仰に、愛が宿り、困難や苦しさに負けませんように。
聖書は美しく表現しています。
「悪魔は離れ、天使がイエスに仕えた」と。
天使が守ってくださる信仰が育ちますように!
『 天の国は、畑に隠された宝を、見つけた人が、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買うようなものだ。』(マタイ 13・44)
・・・すべてを賭けられるって凄いなあ。
わたしなど、すべてにおいて中途半端だ。
畑とは何のことだろう。
人の命の残された時間のことかな。
きっとそうだ。
自分のこれからの残された命の時間だ。
神さまは、お前のこれからの生活をよく生きて、幸いな宝を見つけられるように、 頑張りなさいと、励ましてくださっているに違いない。
『 人の子は、失われたものを捜して救うために来た。』ルカ 19・10)
誰もが何の心配もなく、天真爛漫だった幼いころ。
でも、年をかさね成長し、それぞれの人生を歩むうちに、人間としての大切なものを見失っている。
いや、気づきつつ、それが大人と諦めて過している。
さわやかな笑顔がきつい顔に。
何でも気持ちよくお手伝いしていたのに、 金にならないとばからしい気持ちに。
素直で正直だったのに、嘘をつき誤魔化し、明日を心配しなかったのに、不安で眠れないと言った具合に。
人は、子どもから大人へと大きく成長するけれど、神からいただいた命の大切なところは、むしろ、幼いころにくらべて、悪くなるばかりかも。
唯一、あの馬屋の幼子だけは、無垢な幼子のまま、生涯を生き抜かれた。
だから、この幼子に出会うと、失ったものに気づかされる。
徴税人ザアカイは、イエスを家に迎えた時、その失ったものを取り戻し、「きょうこの家に救いが来た」とイエスから祝福された。
ザアカイに倣って、イエスを迎えて祝福をいただかないと。
『 布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子、これがあなたがたへのしるしである。』(ルカ 2・12)
布にくるまれた命は無力。
生きるも死ぬも、周りの人次第。
人は布にくるまれ、愛の手に抱かれて育ち、 病院のベットで布にくるまれ、病いを癒され、 やがて布にくるまれ葬られ、天に迎えられ、神の愛のなかで永遠に生きる。
神の独り子は、人間の手に抱かれ、マリアとヨゼフの愛に守られ育ち、救いのキリストに。
クリスマスは愛の祝い。
『 医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく、病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、 罪人を招くためである。』(マタイ 9・12-13)
人は、当たり前のように、誰もが、体が悪くなると、 病院に行き、わざわざ、悪いところを医者に見せます。
でも、心はどうだろう。
人は、心が悪くなると、人に知られないように、隠そうとするのではないでしょうか。
お医者さんに、悪いところを治していただくように、 魂の医者、神さまに、心の悪いところを観ていただき、 健康な魂を取り戻せたら、どんなに幸せなことだろう。
『 求めよ、そうすれば与えられる。』(マタイ 7・7)
私は何を求めているのだろう。
富?名誉?地位?
イエスは「まず神の国とその義を求めよ。
そうすれば、これれのものはみな加えて与えられる」(マタイ 6・33)言っておられる。
私はその肝心なことを忘れているから。
それでいつも歯車が狂っているのかも。