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聖フランシスコ吉と枝川
甲子園教会の守護の聖人である聖フランシスコ吉が殉教したのは1957年。 この我が国最初の殉教については、日本では禁教令の影響もあり、殆ど記録が残っておりませんでしたが、 ルイス・フロイスをはじめとする宣教師達の報告がヨーロッパに伝えられ、 この報告が列聖運動につながり、1862年に日本二十六聖人として列聖されました。 一般の日本人がこのことを知ったのは明治以降のことで、幕末に来日したパリ外国宣教会のビリヨン神父が、 列聖の根拠となった日本二十六聖人の記録をもとに「日本聖人鮮血遺書」を刊行したことで広く知られるようになりました。 木村夢庵氏が甲子園の地に教会を建てる決意をされたのも、この書物の記述がきっかけです。 この「鮮血遺書」をたよりに、吉が殉教者の一行に加わった地を推定してみましょう。
地図 豊臣秀吉の命により死刑に処されることになったキリシタンの一行二十四人が京都から長崎へ連行される途上、 枝川の橋の西詰めにあった茶店で休息していた時に、三十才位の男が自ら進み出て捕縛されることを望み、囚人に加わりました。 この男の名がフランシスコ吉です。彼は伊勢の出身で、京都のフランシスコ会修道院の近くに住む大工でした。 吉に洗礼を授けたバプチスタ神父を慕い、京都から一行を追い続けて来たのです。 吉はそれまで数度に亘り囚人に加えて欲しいと訴え続け、その都度拒まれていましたが、 枝川での吉の申し出に、囚人達を率いる役人もついに感服し、吉の願いがかなえられました。 その後さらに西宮でペトロ助四郎が一行に加わり二十六人となり、長崎の西坂の丘で十字架にかけられ、殉教を遂げました
吉が捕縛された地を流れる枝川は、武庫川から分岐する支流で、現在の東海道線鉄道橋のすぐ下流あたりから分岐していたと思われます。 農業用水として大きな役割を果たしてきましたが、しばしば氾濫し水害の原因になるので、大正時代に枝川と、 枝川下流でさらに分流する申(さる)川を締め切って廃川とし、災害の禍根を絶ちました。 その後開発が進み、枝川は道路(甲子園筋)に姿を変え、周囲に阪神甲子園球場や住宅地が立ち並ぶようになりました。
吉が捕えられて殉教の旅に加わった場所は、「鮮血遺書」の記述によれば、当時の街道と枝川が交差していた地点と思われますので、 地名に残る痕跡から甲子園教会の北東に位置する現在の甲子園五番町辺りと推定できます。(地図中の矢印の辺り) 甲子園五番町の東側に「四軒茶屋公園」があります。ここは枝川の東岸にあたり、 街道沿いに数軒の茶店が並んでいたことからこの名が付いたそうで、この公園が当時の名残となっています。
甲子園六石町 一行が通ったと思われる中国街道が枝川を渡るところに「六石(ろっこく)の渡し」がありました。 この場所に、杭を打ち込み、その杭の上に板を渡すという至って簡単な造りの橋が架けられましたが、大雨で川が増水すると橋が水没するため船渡しとなったそうです。 渡しの両岸には街道を行き交う旅人を目当てに茶店が立ち並びました。 茶店では餅が大変よく売れて一日に六石(六千合)の餅をついていたと伝えられ、これに因み「六石の渡し」と呼ばれたそうです。 現在も甲子園五番町の西側に「甲子園六石町」という地名が残り、 往時を偲ぶことができます。死刑を命じられたキリシタンの一行は厳しい旅路の中、この辺りで束の間の休息をとったのでしょう
甲子園六石町
甲子園六石町
甲子園五番町交差点を通る甲子園筋(旧枝川)
かつての枝川は今では美しく整備された道路となり、吉が生きていた時代から随分様変わりしました。 自ら進んで枝川の畔(ほとり)で殉教者の一行に加わり、長崎の地で帰天したフランシスコ吉は、 枝川での捕縛のわずか九か月前に洗礼を受けたばかりでした。吉の驚くべき熱誠に思いを馳せ、甲子園筋周辺を散策してみてはいかがでしょうか。