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「・・・らしく」
ダニエル 李 昇倫 神父
 司祭として人生を過ごしてきていますが、司祭らしく生きているのかと常に自分に向かって問いかけています。
 「らしく」生きるのは簡単そうですが、実はかなり難しいことです。積み上げた壁を壊さなければならないからです。 口先ではなく生き方そのものでキリスト者になるのは本当に難しいことです。自分が積み上げた壁を自分で壊すという門を通らなければならないからです。 キリスト者の生き方の中核は「戻る」です。本来の人間の姿に戻るのです。自分が積み上げてきた壁を壊すのです。 「救い」とは、自分の誇りに目を覚ました人間が築く神様との関係です。自分が「戻る」ことで、神様と自分の関係を回復させます。 「悔い改め」はまさに「戻り」を意味します。壊すということです。
 昨年10月、韓国の首都ソウルの真ん中で156人の若者が命を落としました。あまりにも痛ましい死で、胸が痛む事故でした。 私たちが覚えておくべきことは、誰でもこのような事故の犠牲者になりうるということです。誰もが死からは逃げられないという事実です。 このような死がいつ自分に訪れるか分からないということです。だから何より今、私が生きているということに感謝し、悔い改める時間を持つことが求められます。
 世界を眺めると希望よりは絶望が、光よりは暗闇が見えます。人は相手を愛の対象ではなく、自分の利益や野望や目的のために選びます。 人を人格として扱わず、道具のように扱う世相なのです。人間の尊厳を論じるには社会があまりにも非人格化されているのです。
 教会が危機だと言われます。言葉での実践はいくらでもできます。しかし、行動の実践はありません。何よりも重要なのは「自分」なのです。
 四旬節の始まりには新たな誓いが必要ではないでしょうか。教会が自分のために何をしてくれるかを見る前に、「自分」は教会のために何ができるのかを考えなければなりません。 私の指先が他人(ひと)を指(さ)すのではなく、自分に向かわせるようにしなければなりません。