受洗者の迎え方
ポポン・エマニュエル 神父父
復活祭の時に洗礼を受ける人をどのように迎え入れるのがいいのでしょうか。受洗者に、教会の習慣を教える義務があるのではないでしょうか。
そうしないとその人が間違ったことをしてしまうかもしれません。また教会を維持することを考えると、色々なことを教えないと、教会が継続できなくなるおそれもあります。
つまり、新入社員と同じように受洗者にも訓練が必要です。それは当然のことですが、受洗者を新入社員だと勘違いしてはいけません。
洗礼を受けることは、簡単に言えば、イエスとともに歩むという聖霊の呼びかけに答えるということです。
人の心の中で働く聖霊は、各人を神の子どもになるように導いてくださいます。洗礼を受けるまでは、自分の心に従っていました。
それなのに、どうして洗礼を受けてから人の教えに従わなければなりませんか?
受洗者に教える時に気をつけなければならないことが一つあります。それは、教えようとする人が神の代理になってしまうという過(あやま)ちです。
特にその教会での習慣を教える時に。人間のルールを教えるのか、その人の自由を支える教えを伝えるかを見分けるように努力しましょう。
それは受洗者を人間のルールに縛らないためです。社会のルールは人間のルールであることがはっきりわかります。
一方、教会の中のルールは、人間が考えたのに、神のルールにしてしまう可能性が高いです。それはイエスとファリサイ派とが言い争ったことからよくわかるでしょう。
教会の習慣と聖霊の導きを混同してはいけません。「ここの信者になるためにこうしてください」と教える時に、それが人間の習慣だとはっきり意識しましょう。
そして、その習慣を守らなければ信者じゃないというような裁きの言葉を言わないように気をつけましょう。
教会は神が維持するものです。私たちが維持するものではありません。受洗者が洗礼を受けたのは、習慣を守って教会を維持するためだという考えを避けましょう。
教会は、イエスに結ばれて世の中を歩む人の集まりです。教会の使命は、人間が作ったルールに従うように教えるのではなく、
むしろ、イエスの愛とイエスの奉仕の精神に従うように、お互いに励み合う場所です。「ここの教会ではこうしています」という言葉を聞くたびに、いつも違和感を持ちます。
神の子どもとしての自由に達するための教えや勧めはふさわしいと思いますが、習慣や活動について教える時には特に気をつけましょう。
受洗者をはじめ、お互いにとってどんな共同体でありたいかを改めて考えましょう。人を迎え入れ、聖霊の自由を生かす共同体であるように常に神の導きを願いましょう。
それこそ受洗した兄弟姉妹に対して模範になるに違いないです。