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2020年6月21日A年 年間第12主日 「ミサのメッセージ」
アウグスチノ 川邨 裕明神父
 今日読まれた福音、イエスは弟子たちにやがて来る迫害の時代を預言します。 それは、マタイの教会の時代に起こる迫害でもありました。 イエス・キリストを信じる者は迫害を受け、なかには殺され る人も出てくる、そんな預言でした。
 翻って、日本の教会もたくさんの殉教者を生んできました。ところが、殉教者の話をするとかならず同じ反応が返ってきます。 それは「私には殉教は絶対無理だ」、「殉教者のように生きることはできない」、 「私は苦しめられたり、殺されたりするのが怖いから、逃げてしまうに違いない」などです。 しかし、イエスの話を聞いていた12弟子たちや、群衆の中にも同じように、殉教は怖い、殉教はいやだと思った人がいたかもしれません。
 日本の禁教の歴史において、キリスト教信者かどうか調べるために行っていた「踏み絵」がよく話題に上ります。 踏み絵を踏むか踏まないか?そういう話をします。
 しかし考えてほしいのです。あなたはまったく自由な意志で、踏み絵を踏むか踏まないか決められますか? ほとんどの人は無理だと思うのです。なぜなら人は一人で生きているのではありません。 親もいれば兄弟もいます。親しい友人、仕事仲間もいます。自分が踏み絵を踏まなければその人たちはどうなるのでしょうか? 当然、役人に捕まり取り調べを受けるでしょう。中には信者であると分かって処刑される人も出てくるでしょう。 したがって、踏み絵を踏むか踏まないかは、自分一人で決めることのできる問題ではなかったのです。 迫害の歴史の中では、はっきりと自分はイエス・キリストの仲間であると公言して、殉教していった人たちも数多くいました。 しかし、多くの殉教者はそうではなかったのです。
 「踏み絵を踏もう」そう決心して、朝、家を出ます。 家族や仲間を守るためには、仕方のない選択でした。ところが、踏み絵の前に立つと一瞬躊躇してしまうのです。 それでも気を取り直して踏むのですが、時すでに遅しです。 役人は、踏むか踏まないかを見ていません。全員踏むからです。 踏む前に迷いがないかどうかを見ていたのです。 役人にとがめられた人は、言葉ではなく、態度で自分はイエスの仲間であると表してしまったのです。
 日本の殉教時代の人々も、私たちとまったく変わらない普通の人たちでした。 殉教なんて絶対できないと思っていたのです。しかし、殉教の道へ追いやられていったのです。 まさに「覆われているもので現れないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない」ことが起こったのです。
しかしいったん殉教への道が開かれると、彼らは堂々とその道を歩み始めたのです。  だから、イエスは弟子たちに繰り返し「恐れるな」と呼びかけます。 何度も「恐れるな」と繰り返されます。信仰の道はその場、その時になれば、自然に道が開かれてゆくものなのです。 信仰は、自分の選択によるのではなく、神の導きによって進んで行く道なのです。だから「恐れずに」神にすべ てを委ねましょう。