今日のミサ、第一朗読では列王記が朗読されます。有名な箇所です。若くして王になったソロモンに、神様は「何事でも願うがよい。
あなたに与えよう」と声をかけられます。
望むものを何でも与えようと約束されるのです。うらやましい話ですね。あなたなら何を神様に願いますか?
今なら、新型コロナウイルスを終息させてくださいと願うと、かっこよいかもしれません。
それともせっかくだから、自分の幸せを願ってみますか?
ソロモン王は、自分のことを一切求めませんでした。
ソロモン王は自分に与えられた民を裁く(立法、行政、司法、福祉を含む概念です)ために必要な聞く力(善悪を聞き分けて判断できる能力)を求めたのです。
神様は、ソロモン王が、自分のために何かを求めるのではなく、国民への奉仕の力を求めたことを非常に喜ばれました。
ソロモン王は若いにもかかわらず、国王が国民への奉仕、つまり国民のために働く存在だとしっかり理解していたのです。
神様は、ソロモン王がそのことを理解していたと喜んだのです。
同様に、この話を通して神様が私たち人間に与える力の数々(能力、才能、時間など)はほかの人のために使うのだと教えているのです。
使徒パウロはローマの教会の信徒に、神の計画実現のために選ばれた者、神から愛される者は、御子イエス・キリストに似た姿に変えられると言います。
イエスが人々の救いのために十字架に上げられた姿、その姿に似た者になるということでしょう。
神の救いの計画に協力しようとして働いていると、その人は十字架のイエスに似てくるのだと、パウロは断言しています。
神様が共に働いてくださる、そのことが証明されます。
今日の福音、イエス様は集まっている人々に「天の国(神の国)」のたとえを語られました。
天の国、それは神の国と同じ意味ですが、それは全財産を投げうってでも手に入れるべき価値があるということです。
ただ、それだけではなく、神に代わって民を正しくさばくために選ばれたソロモン王、パウロが言う、
神を愛して神の救いの計画のために召し出された人との関連で考える必要があります。
そう考えると、イエスのたとえ話の要旨は、神の救いの計画実現のために働く人の姿は、宝が隠された畑を発見した人に似ているということになります。
天の国に至る道筋、あるいは天の国を実現する方法を発見した人は、「持ち物をすっかり売り払って」でもそれを手に入れるのです。
自分の発見に喜び、自分のもっているものをすべて差し出してその実現のために尽力するのです。
自分のものをすべて差し出して救いの計画に参加するのです。
私たちは神様からたくさんの恵みをいただいています。それらの恵みは、自分のためにあるのではなく、神様の救いの計画実現に協力するためにあるのです。
神様から与えられている恵みを、神様の望みに従って正しく人への奉仕のために使うなら、
私たちは十字架上のイエス・キリストの姿と同じ姿に変えられ、神と共に働くことができるようになります。
その先には、全財産を投げうった以上の大きな喜びが待っているのです。
人生の目的である自己実現は、神と人への奉仕から生まれるのです。