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2020年8月9日A年 年間第19主日 「ミサのメッセージ」
アウグスチノ 川邨 裕明神父
 新型コロナウイル禍のさなか、「これにはどんな神様からのメッセージがあるのですか」とか「新型コロナウイルも神が創造されたのですか」など、 問いかける声を聞きました。今日の第一朗読を読むと、激しい風、地震、火、自然現象の中に神はおられず、静かにささやくような声が神の言葉だったと書かれています。 神様が人間の前に現れるときに自然現象を伴って現れることが否定されています。 神様は、耳を澄ませないと聞き逃してしまうような「静かにささやく声」として語りかけてくることがあるのです。 新型コロナ禍の中に神様はおられず、静かにささやく声を通して私たちにメッセージを送っているのでしょう。 その声を聞き逃さないようにしたいものです。
 マタイ福音書は、ペトロが水の上のイエス様のところに行きたいと考え、イエスの「来なさい」の声に従って、船から降りて水の上を歩きだすエピソードを語ります。 しかし、強い風とさかまく波という自然現象を前に恐怖を覚え、そのために沈みかけます。 ペトロが助けを求めて叫ぶと、イエス様はすぐに手を伸ばしてペトロを救いました。 ペトロは「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と叱られてしまいました。
 イエス様の言葉にある「疑う」は、ギリシャ語で「ディスタゾー」ですが、この語は「ディス」(二度・二重)から派生した動詞で、 あることに関して二番目の(別の)考えを持つとの意味があります。 ここでのペトロは、「水の上を歩いてイエス様のもとに行きたい」と考えると同時に、「強い風に気づいて怖くなる」との別な考えを抱きました。 このような想いが二つに分かれた状態をディスタゾーは表現しているのです。
 新型コロナウイルスが再び感染を広げる中で、知事をはじめとする各地の首長たちは、できるだけ外出を避けて自粛しようと呼びかけます。 反面、政府はGo To キャンペーンとして旅行に出かけようと呼びかけ、感染拡大を第二の波と認めず緊急事態宣言も出そうとはしません。 帰省は控えようという一方で、旅行に出かけようと呼びかけられるのです。 私たちはいったいどうしたらよいのでしょうか。この状態、まさしくディスタゾーではないでしょうか。 そうなると私たちはどちらに進めばよいのか迷ってしまいます。 そして、政府に対する不信や疑心暗鬼が大きくなってゆくのです。
 ところで、舟に乗った弟子たちは風と波にもてあそばされます。 おびえる弟子たちの前にイエス様は表れて「わたしだ」と声をかけます。 イエス様はこの言葉を用いて、逆風と荒波という困難の中にも神様が共にいてくださることを示されたのです。 湖の上を歩き、風を静めるイエス様に、人間に襲いかかる自然の脅威を支配する神様の力が示され、その神様が常に共にいてくださることがあらわされます。
 ペトロは、そのイエスの力を頼りに一歩を踏み出します。 結果として、ペトロの試みは失敗に終わりました。 ところが、ペトロの勇気ある行動が舟に残っていた弟子たちの「本当に、あなたは神の子です」との信仰告白を引き出したのです。 心に疑い(ディスタゾー)が生じる事態にあって、困難にくじけそうになる時があります。 イエス様はその時を、私たちが神様と出会う場に変えられるのです。 疑いを生じる場が信仰が生じる場へと変えられてゆくのです。 イエス様の「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」との声に応えて、勇気をもって、一歩を踏み出しましょう。