2020年9月06日A年 年間第23主日 「ミサのメッセージ」
アウグスチノ 川邨 裕明神父
マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネ、4つある福音書の中で「教会」という語はたった三回しか出てきません。
そのすべてがマタイ福音書にあり、そのうちの二回が今日の福音にあります。もう一回は、イエス様がペト
ロの上に教会を建てると言われたところで使われています。
「教会」は、ギリシア語の「エクレーシア」を翻訳したものです。ギリシア語の「エクレーシア」は、も
ともと市民の集会を指して使われていた単語です。
新約聖書では、使徒言行録やパウロの手紙に「教会」がよく使われています。聖霊降臨の出来事を通して、
復活したイエス・キリストに対する信仰をもった人々の集まりが「教会」になりました。
パウロは、同じ信仰を持った人々の集まりを「教会」と呼んでいます。
教会は集会あるいは会衆全体を指すのであって、建物を意味していないことは明らかです。
今日の福音書に出てくる「教会」も建物ではなく共同体をイメージしていることは明らかです。
その教会は、信じている者の二人が「地上で心を一つにして求める」ところにあり、「二人または三人がわたし(イエス)の名によって集まるところ」に存在するのです。
新型コロナウイルス感染症の感染拡大に伴って、教会はミサをはじめとするほとんどすべての活動を止めなくてはなりませんでした。
日本の教会だけではなく、世界中の教会で同じことが起こりました。
イタリアのある教会では、一人ミサを捧げる司祭の前には、信徒の写真が席に貼られていました。
これまで私たちは、毎週教会に集まってミサを捧げ、様々な集まりを行ってきました。それを私たちは当たり前のことだと思っていました。
なくなるなんて思ってもいませんでした。
みんなで集まってミサができなくなる、いろいろな集まりが中止になる中で、私たちは新しい問題に直面したのです。
その問題を一言でいうならば、「教会」とは一体何なのだろうか、です。
みんなが一緒に集まることができない状況の中で、「教会」をどのように維持してゆくべきなのか。
そもそも「教会」とは一体何なのだろうか。思ってもみなかった深刻な問題が突き付けられたのです。
ミサのインターネット配信、Zoom を使った会議、講座や講演会のインターネット配信、いろいろな試みが行われてきました。
先ほど例に出したイタリア人司祭のチャレンジもその一つでしょう。しかし、いまだ
に明確な答えは見いだせていないと思います。
話は変わりますが、新型コロナウイルス感染症が問題になる前、私は教会に来ることができない病者、老人をよく訪問していました。
今もできる限りチャレンジしています。老信者の自宅を訪問すると、家庭用祭壇があり、十字架やマリア像が飾られています。
朝晩、祭壇の前で手を合わせて祈っておられます。
食卓には食前の祈り、食後の祈りがあります。ベッドにはロザリオがさりげなく置いてあります。
病院や施設では、ある程度制限があるので、限られた場所を使って家族の写真と信仰に関するものが置かれています。
みんなそれぞれがいる場所を祈りの場にしていることがよくわかります。
私はいつもそれらを眺めながら、「ここが教会なのだ」と感動していました。
今日の福音の中に新型コロナウイルス、あるいはこれから襲ってくる未知の病気の中で、聖堂という場所に集まることのできない私たち教会が目指す答えがあると思います。
それは家庭を教会にするということです。家庭を祈りの場にします。そして、家庭を結び合わせることでつながってゆくのです。
これが新しい教会のイメージです。
新しい教会の姿は、まだイメージでしかありません。しかし、一歩を踏み出そうではありませんか。
「二人または三人がわたし(イエス)の名によって集まる」教会を作るために。