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2020年9月13日A年 年間第24主日 「ミサのメッセージ」
アウグスチノ 川邨 裕明神父
 ペトロのよいところは、何でもイエス様に直接質問するところです。 イエス様はペトロの質問を使って、他の弟子たちにも教えを述べられます。 ペトロの質問に対して「あなたに言っておく」と答えていますが、たとえ話の最後には「あなたがたの一人一人が」と複数形になっているところから、 ペトロに答えられた後、そこにいたほかの弟子たちにたとえを話されたことがわかります。
 ペトロは、弟子たちの話の中で話題になった「兄弟を赦すこと」について、弟子たちを代表してイエス様に質問したのかもしれません。
 私たちはよく「仏の顔も三度まで」と言います。これは「温厚な人でも無礼を繰り返せば怒り出す」という意味です。 同じように、ペトロや弟子たちに対して執拗に無礼を働く人がいたのかもしれません。 イエス様は、神様の優しさや赦しについて話していましたし、実際罪びとを無条件に赦す姿をたびたび見ていましたから、 どれくらい我慢したらよいのかと弟子たちは話し合っていたのかもしれません。そこで、ペトロがイエス様に質問したのです。
 日本人は三度まで、その倍以上の7回ならどうだろうか?「我慢強いね!それで十分だ」とイエス様に言ってもらえるかもしれない、 そんな風に思いながらペトロは質問したことでしょう。しかし、イエス様の答えはペトロの予想をはるかに越えるものでした。 七の七十倍、掛け算すると490回というとてつもない回数赦さなければならないのです。 それも一人の人に対してです。無限にゆるし続けなさい、それがイエス様の答えでした。
 ペトロはじめ弟子たちは、自分たちの予想をはるかに越えるイエス様の答えにびっくり仰天したはずです。 その時には、イエス様の言葉の真意を理解できなかったことでしょう。   弟子たちは後に、十字架の上から自分を死刑にした人々を赦すイエス様の姿を目撃しました。 さらにイエス様が捕まるときに見捨てて逃げ出し、イエス様の仲間であることを否定した自分たちを、 復活したイエス様は自分から近づいてきて赦してくださったのです。 なんとすごい赦しを自分たちは受けたのでしょうか。神様の無限の赦しに触れた瞬間でした。 あの時に聞いたイエス様のたとえ話の意味を心から理解したのです。 そして、ペトロたちはその体験を伝えると同時に、実践する人になっていったのです。 ところで、カトリック信者はまじめな人が多いので、イエス様から「赦さなければ」と言われると、それをきっちり守ろうとします。 そして、まじめに努力します。「赦さなければ」「赦さなければ」と頑張ってしまうのです。 でもそれは逆効果では?赦そうと思えば思うほど、赦せない気持ちが強くなりませんか? 赦そうと思うだけで赦してしまえるなら、もともと赦すのが難しいことではなかったのです。 赦せないという気持ちが強いから赦せないのです。どれほど呪文のように「赦そう」を繰り返しても、決して赦せないでしょう。
 だから、素直に「赦せない」自分を認めるところから始めてみてはいかがでしょうか。 そう思いませんか?ペトロや弟子たちでさえ、イエス様の十字架を通した神様の赦しの業に出会うまで、赦せる人間にはなれませんでした。 まして私たちは、そんなに簡単に人を赦せるわけはありませんね。そんな私たちですが、神様の赦しの業に触れることができれば、変われるのではないでしょうか。 「赦さなければ」と無理をするよりも、「私が赦せる人間になるためには、神様の赦しの力が必要なのです。助けてください」と祈ると、不思議に気が楽になりますよ。