2020年9月20日A年 年間第25主日 「ミサのメッセージ」
アウグスチノ 川邨 裕明神父
今日の第一朗読ではイザヤの預言が読まれました。「天が地を高く超えているように」「私の思いはあなたたちの思いを、高く超えている」という神の言葉がありました。
神の考えることと、人間の考えることは違うのです。天と地の間に決定的な違いがあるように、神が考え実行することと、
人間が考え実行することの間にも大きな違いがあるのです。
福音書のメッセージを読むと、確かにそうだと思うことがあります。
たとえば、英雄のようなローマからイスラエルを解放する解放者としての救い主を待っていたら、
実際に来たのは、すぐに捕まって殺されてしまう救い主、イエスでした。人間の願いと神の思いとの決定的な違いが現れています。
今日の福音の話も常識外れです。朝早くから一日汗を流した人と、夕方来て少し働いた人の賃金が同じとは。
普通だったら朝早くから仕事していた人はやっていられないと思うでしょう。
しかもその理由が、自分の金を使うのだから自由だと言われては納得できないでしょう。本来だったら通用しない理由です。
ここで「わたしの気前よさをねたむのか」という言葉をよく考えてみましょう。
このぶどう園の主人は、後から来た人に最初から働いている人と同じ報酬を払いました。
しかし、最初から働いた人にも十分報いていると考えられます。
そうであるなら、早くから来た労働者から見れば、ぶどう園の主人の思いは理解できないかもしれませんが、文句を言うのもおかしいとも言えます。
ぶどう園の主人は、自分のもとに来た者、全員に十分な報酬を渡したかったのです。
そう考えると、ぶどう園の主人がしようとしていることは、悪いことではないと思えます。
今日の福音、イエスがこのたとえを誰に向かって話しているかによって解釈が変わってきます。
イエスが弟子に向けて語られたとしたら、「神はすべての人に永遠の命を分け与えたいのだから、
あなたがたが他の人よりたくさん働いたからと言って特別な地位が与えられるのではない」ということになります。
誰が一番かと争うような所のある弟子たちには、耳の痛い話かも知れませんね。
イエスに敵対する律法学者やファリサイ派の人々に向けられたたとえだとしたら、このように考えられるでしょう。
「あなたがたは、神からの言葉を預かる恵みの分配者だと自認しているが、あなたがたは神さまの思いがわかっていない。
神さまはすべての人を救いたいのだ、しかし、あなたがたは神への貢献、すなわち献金の額、奉仕の働き、断食、律法の遵守に応じて恵みが変わると言っている。
それはおかしい。神の恵みは神が配分するもので、人間が決めることはできない。
誰が天の国に入るのか、どの順番で入るのかも神が決めるのだ。そこを間違ってはいけない」その様に警告していると考えられます。
五時から来て一時間しか働かなかった人、あるいは自分がそのような存在だと思っている人がこのたとえを聞いたら、どのように感じるでしょうか。
きっとこの主人の寛大さに感謝するでしょう。そして、この主人に報いようという気を起こすのではないでしょうか。
イエスがこのたとえを誰に語ったとしても、神の恵みの分配者は神ご自身である点は変わりません。
私たちに求められているのは、神が必ず私たちを救おうとしていることを信頼し、
それを信じて、神から差し出される救いの手に「ハイ!」と答えて救いの手を握り返すこと、それだけなのです。いつでも答えることができますように、祈りましょう。