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2020年9月20日A年 年間第26主日 「ミサのメッセージ」
アウグスチノ 川邨 裕明神父
 念仏詩人、榎本栄一の「わが暗闇」の詩に、「わがこころの 暗闇に気づいたら 遠くで小さな星が光ります」というのがあります。 とても深い心情をうたった詩です。心にある暗闇に気づいて打ちのめされそうなとき、そのはるか向こうに輝く小さな星の光、それは希望と言えるかもしれません。 その光を頼りに再び歩みだすことができるのです。
 今日の第二朗読、パウロの手紙に「2:6 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、 2:7 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、2:8 へりくだって、死に至るまで、 それも十字架の死に至るまで従順でした。」とあります。 イエス様の歩んだ人生が、短く、しかも的確にまとめられています。 死に至るまでの従順、それは父なる神に対する従順でした。
 イエス様の心には暗闇はありませんでした。しかし、人々の心にある暗闇は見えていました。 そこで、小さな星の光となるべく、父の命令に従い神である自分を捨てて人々のために命を捧げられたのです。 イエス様は、父の命令に「はい」と答え、そのままブドウ畑へ出かけて行かれたのです。
 先週のぶどう園で働く労働者のたとえに引き続き、今週も「ぶどう園に向う兄と弟」が登 場するたとえ話が、イエス様によって語られます。父から「今日はぶどう園に行って働きなさい」と言われた兄弟が、 兄は「いやです」と答えながらも「考え直して」出かけてゆきます。反対に「はい、わかりました」と答えた弟は行きませんでした。 前後の文章の流れから、「兄」は徴税人や娼婦、「弟」は(イエスと敵対する)祭司長や長老たちを指しています。
 たとえの兄とされる徴税人や娼婦は、神様からの呼びかけに「はい」と答えることができないような自分たちの状況を、悔やみ後悔していたのでしょう。 洗礼者ヨハネが示した義の道によって、自分たちのこころにある暗闇に気づいたのです。 それゆえにイエス様の姿に小さな星の光を感じ取ったのです。
 一方、たとえの弟とされる祭司長や長老たちは、自分たちこそ神様の命令を従順に実行していると信じ切っていました。 心に闇を持つ人々を導く大きな星の光であると思い込んでいたのです。それゆえに自分たちのこころにある暗闇に気づくことはありませんでした。 洗礼者ヨハネの示した義の道にも反応することができず、イエス様に小さな星の光を見ることもありませんでした。 今日のたとえ話の中心は「父のために考え直す」ことです。つまり、自分中心ではなく「父」を中心に気持ちを動かしたという「行ない」が大切なのです。 この兄一人がぶどう園に行って働いたからと言ってもどれほどの手助けになったかはわかりません。 弟一人がさぼったからと言ってもどれほどの損害が生じたとも思えません。 ぶどう園に行ってどれくらい働いたかではなく、「父」を自分より優先するという行ない(自己譲渡)が大切だったのです。
 イエス様は、父の思いをよく理解し行いで従順を示しました。 徴税人や娼婦たちは、自分たちのこころにある暗闇によって、父の思いを理解し生き方を変えることができました。 祭司長や長老たちは、心にある暗闇に気づかなかったために父の思いを生きていると思い込んで、結局、思い込みを考え直すことができませんでした。
 私たちが、イエス様の後に従って、父の思いを生きるためには、自分のこころにある暗闇に気づくほかないのではないでしょうか。