2020年10月11日A年 年間第28主日 「ミサのメッセージ」
アウグスチノ 川邨 裕明神父
先日、久しぶりに結婚式の司式を行いました。新型コロナウイルスの影響で、問い合わせはあったものの、ほとんどがキャンセルになっていました。
このカップルは、申し込みの時から何があっても結婚式を教会で挙げるとの強い決意を持っておられました。
準備の時間も結構ありましたので、相談しながらオリジナリティあふれる式にしてゆきました。
当日は、久しぶりに聖堂に聖歌が響き、とても良い式になりました。
式の後、お二人は結婚披露宴のため大阪市内のホテルへと向かわれました。
今日の福音には、王子の婚宴のたとえ話が出てきます。教会で結婚式を挙げられた二人と全く違って、悲惨な話の展開になっています。
イエス様はなぜこのようなたとえ話を語られたのでしょうか。
まず、王子の婚礼はどのようなものであったかを考えてみましょう。どのような宴会だったかは、第一朗読、イザヤの預言に描かれています。
神様が開かれる宴会は、救いが訪れたことを祝う喜びの宴です。ごちそうと素晴らしいお酒が用意されています。
それ以上に、この宴会で祝われることは、素晴らしい救いの業なのです。
布にくるまれるような圧迫が取り除かれ、死が永久に滅ぼされ、すべての人の涙をぬぐわれ、笑顔を取り戻すことができます。
民の恥を拭い去ってくださるのです。宴会に呼ばれた人々に、これ以上ない幸せが約束されているのです。
このような素晴らしい喜びの婚宴が開かれようとしています。
しかし、イエスが語るたとえ話では、招かれた人々が宴会に参加しようとしません。
どんなに大変な理由があって断るのかと思えば、畑に行くとか商売する、日常生活を続けるだけです。
それどころか知らせを無視し、知らせに来た王の家来を虐待し殺してしまいますから、敵対しているのです。
これでは王様が怒って報復するのも無理はありません。王は家来に善人でも悪人でもだれでも招きなさいと命じます。
ところで話は変わりますが、私が神学校で学んでいたころ、こんなことがありました。
ある日、神学生がそろっている前で院長が服装の大切さを話していました。
ある教会で葬儀があり、それを司式した神父がなんとジーパンとサンダルの上に祭服を着ていたらしいのです。
祭服の間からそれははっきり見えます。参列者は大変怒ったそうです。
だから、服装には気を遣うようにとの訓示でした。ところが次の日、神学校に来た神父が祭服の下に着ていたのが、短パンとサンダルだったのです。
私たちは院長の顔を見ました。苦虫をつぶしたその顔を忘れることができません。
その時から、私は教会において服装には気を配るようにしています。
高価でなくても、場の雰囲気に沿った服装をするように心がけています。
日本は学生から始まって、制服をよく着用する国民だと思います。
制服に着替えるとき、同時に心も整え準備しているはずです。制服を着るとその役割に徹するようになります。
制服を着ると、その制服に向けられた期待を裏切らないようにしようと、自然に思うし行動するようになります。
イエス様のたとえ話には、礼服を着ていなかった人が王様から追い出される様子が描かれています。
急に誘われたのだから、礼服を着る時間がなかったのかと思いますが、他の参加者は礼服を着ているわけですから、それは当てはまらないと思います。
礼服も王が用意していたのかもしれません。この男は、王に礼服を着ない理由を返事できませんでした。
王子の婚礼、それは神の国に招かれることですが、参加するためには礼服を着るようにそれにふさわしい準備、心構えが必要になるのです。
私たちにとっても、神様からの呼びかけに応えるためには、それにふさわしい準備を整えることが欠かせません。