2020年10月25日A年 年間第30主日 「ミサのメッセージ」
アウグスチノ 川邨 裕明神父
祈りの最初と最後にする十字架のしるし。イエス様がかけられた十字架は縦の木と横の木の組み合わせでできています。
縦の木は神様への愛、横の木は人々への愛を示します。
その中心にイエス・キリストがいらっしゃるのです。十字架上でイエス様は、
「あなたの神である主を愛しなさい」と「隣人を自分のように愛しなさい」との愛の掟を自らの姿でお示しになったのです。
その前の晩、最後の晩餐の席上で、イエス様は「世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれ」、
その愛を示すために突然席を立ち、上着を脱いで手ぬぐいを取って腰に巻いて、たらいに水をくんで、12弟子たちの足を洗い始めました。
一人一人の足を洗うと、腰にまとった手ぬぐいで拭きました。ここでイエス様は、愛するとはどのようなことなのか、身をもって示されたのです。
今日読まれたマタイ福音書では、ファリサイ派の律法の専門家がイエス様を試みようと質問しています。
ファリサイ派は人々に、律法は神から与えられた神聖な法であり、そのすべてを言葉通りに守るように教えていました。
どれが優先されるかなど優先順位をつけることは、もってのほかでした。
もしイエス様が、律法に順位をつけたら、神が与えた神聖な法に大切なものとそうでないものがあると区別したと批判できるのです。
そして、神に対する冒涜の罪を問えるのでした。その罠を見抜いていたイエス様は、律法の中から一番重要なものを選ぶのではなく、
旧約聖書を要約するかたちで「神への愛」と「隣人への愛」を提示したのです。
イエス様は「神様を愛すること」と「隣人を愛すること」の掟を律法の精神を現しているとして宣言しました。
また、この掟が一つのものであると決定的に宣言されたのです。
第一の掟と第二の掟はコインの両面のようにどちらかだけということが不可能なものです。
隣人愛を無視して神様を愛することは不可能ですし、神様を愛すること無しに深い隣人への愛は生まれないからです。
イエス様は、第一の掟と第二の掟が一つであることを、十字架に付けられることを通して明らかにされたのです。
さらに、イエス様が弟子たちの足を洗ったように、愛には奉仕が伴うことも示されました。
十字架のイエス様は両手両足を釘で打ち抜かれていました。愛には、血を流すような痛みと苦しみが伴うことも示されたのです。
イエスに悪意の質問を発したファリサイ派の人々は、律法の細かい規則にこだわりすぎて律法の源泉である愛を忘れてしまっていました。
私たちもまた、「見えざる神への愛は見える人間を愛する道をたどること」を忘れてしまいがちではないでしょうか。
イエス様はご自身が示された神と人への愛に、私たちを招いておられます。