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2020年11月8日 A年 年間第32主日「ミサのメッセージ」
アウグスチノ 川邨 裕明神父
 柏木哲夫(淀川キリスト教病院理事長)さんの言葉に、「人は生きてきたように死んでゆく」というのがあります。 司祭になって、たくさんの人の葬儀を担当してきましたが、その言葉通りだと思うことがたくさんありました。 その人がどのような人生を歩んできたかが、その人の最後の時によく表れるのです。 今年も芦屋・甲子園教会で、何人ものおみおくりをさせていただきました。それぞれに違いはあるものの、良い葬儀ではなかったかと思います。
 カトリック教会では、亡くなることを「帰天」と呼びます。私たちは天から降りてきて、産まれ人間になりました。 人生の最後に、神様が息を引き取ると私たちは死にます。そして、元来た場所、天の国へと帰ってゆくのです。 元の場所へ帰る、つまりいるべき場所へ戻るのですから、別れには悲しみは伴いますが、どこかに明るさがあるように思えます。 カトリック教会の葬儀は、じめじめしていなくて明るくてよいと言われることがありま すが、帰天の考え方が影響しているのではないでしょうか。
 イエス様は「決定的な終わりの日はいつ来るか分からない、天の父だけが知っている。 だからその時のために、いつも目覚めて用意していなさい」と言います。この言葉から分かるとおり、今日の福音のテーマは終末です。 終末とは、私の人生の終わりの時であり、この世界の終わりの時でもあるのです。 そして、終末とはいつか来る最期、ことばを変えると完成の時なのですが、それだけではなく、すでに私たちの足元、毎日の生活の中に始 まっているのです。それだけに、この日、この時をどのように過ごすべきか、終末に向けてどのような準備をするかが問われているのです。
 イエス様は、終末について、花婿を迎えに行く十人の乙女のたとえを用いて説明します。 この乙女たちは花嫁のつきそいとなるべく選ばれた若い女性たちです。 花嫁と同じ年頃で、自分たちもやがて結婚相手と巡り合い、花婿を迎える立場となる乙女たちは花嫁と同じ気持ちで花婿の到着を待ちわびているという設定です。
 十人の乙女は、みな若く、美しく着飾り、外見からはみな同じように見えたことでしょう。 しかし、その中の五人は賢く、五人は愚かだったと言われています。
 十人の乙女たちは灯し火をもって花婿を迎えに行くという、自分たちの役割を知っていました。 ところが、いざ花婿の到着の時が来て、乙女たちの間には大きな差が生じました。 賢いおとめたちは花婿を迎えることができましたが、愚かなおとめたちは、油がないという自分たちの準備不足に気づきましたが、時すでに遅く、 油を買いに行かなければならず、花婿を迎えることができなかったのです。 賢いおとめと愚かなおとめを分けたもの、それはわずかな差でした。灯し火とともにそれに注ぐ油を用意していたかどうかでした。 愚かなおとめたちはわずかな油がないために、灯し火に点火できなかったのです。 油を断つと書いて「油断」という、まさに油断していたと言うべきでしょう。 十人の乙女のたとえ話が私たちに伝えているメッセージは、終末のそのときに向けて、自分たちの果たすべき役割をしっかりと知ること、 しかもその役割に忠実に向き合い、何が必要であるかを十分に考えて準備し、実践することが大切だということです。
 いつ来るかわからない、決定的な終わりの時に向けて、一日一日をどのように準備する のかが大切なのです。その時が来てから慌てふためいても、時すでに遅しなのです。