01月01日 B年 神の母聖マリア【祭日】
神の母聖マリアの祭日ミサは、マリアがイエスの母となると同時に神の子である救い主の母となったことを記念します。
新年に当たりミサの中で、世界の平和を祈ります。今年もフランシスコ教皇の「世界平和の日」メッセージが公表されました。
今年のテーマは「平和への道のりとしてのケア文化」です。▲フランシスコ教皇は、聖書と教会の歴史から、ケアの文化はキリスト教の基本であることを解き明かします。
またケアの諸側面を分析し、教育によってケアの文化を育て、人間の尊厳という舵と社会原理の羅針盤を持ち、
「互いを受け入れ、互いをケアする兄弟姉妹からなる共同体を築く」ために具体的な努力を日々、続けていきましょうと、力強く呼びかけています。
01月03日 B年 主の公現【祭日】
イエスが生まれたという出来事において、東の方から来てイエスを訪ねた占星術の学者たちと、ユダヤを支配していたヘロデ王の反応は正反対でした。
▲現実の社会や生活に失望していた占星術の学者たちは、危険を顧みず、星に導かれてイエスに会いに来る旅を始めました。彼らはイエスを必要としていました。
▲一方、ヘロデ王にとってイエスの誕生は、ライバルの出現でした。それで、イエスを殺してしまおうとしたのです。
そこには憎しみしかありませんでした。イエス誕生という同じ出来事に対して、学者たちは喜びにあふれ、ヘロデは不安と憎しみを抱いたのです。
▲身の回りに起こっていることを、どう考えるのか?そのことを私たちは神から問いかけられていると思います。
すべての出来事の中に神の栄光を見分けることができるように、祈りましょう。
01月10日 B年 主の洗礼【祝日】
主の洗礼は、イエス・キリストの公生活すなわち救い主としての使命を生きる新しい人生の出発点でした。明日は成人の日です。
主の洗礼と成人式には、新しい人生の旅路の始まりとして、共通点があるように思います。
▲イエス様は、世の救いの完成・成就させるために受難を受け、十字架において自らの命を捧げ、復活の栄光を受けるという道を洗礼から始められたのです。
▲成人式が大人のとしての人生のスタートであるのと同じように、洗礼はイエスキリストの弟子としての歩みを始めるスタートなのです。
新型コロナウイルスの感染拡大によって、やむを得ずミサに預かることや教会活動にかかわることを控えているうちに、洗礼の恵みから遠ざかることがないように、
キリストに学び、キリストともに祈り、キリストと交わることを大切にして、日々の信仰生活を深めて行きましょう。
01月17日 B年 年間第2主日
福音宣教のきっかけはどこにでもあると思います。種をしっかりまいておけば、その種が意外なところで芽を出し、身をつけるのではないでしょうか。
その時、「来て、見る」という接点がかなり重要だと思います。▲今日の福音はヨハネ福音の第一章に記されている、
イエス様と最初の弟子たちとの出会いが語られています。洗礼者ヨハネはアンデレとヨハネに声をかけて、イエス様の弟子になるきっかけを与えました。
アンデレはシモンにイエス様を紹介し、弟子になるよう背中を押してあげました。▲誰かをキリストに引き合わせる働きはとても大切です。
私たちも、何かの縁で、何かのきっかけで、教会に足を運んでくれた人が、最初の一歩を踏み出せるように、キリストの弟子として誰かをキリストと出会う導き手になりましょう。
01月24日 B年 年間第3主日
マルコ福音書は、メシアとしてのイエスの宣教の第一声を「①時は満ちた。
②神の国は近づいた。③悔い改めて④福音を信じなさい」という4つのキーワードにまとめます。
福音宣教に用いられる教会用語は、マルコ福音書の用語だったのです。このキーワードが、イエスによる新しい救いの契約の内容だったのです。
▲イエスの第一声と密接に結ばれている出来事、すなわち4人の人々を弟子にすることが語られます。
イエスの福音宣教と弟子たちの召命は深く結ばれているのです。イエスは福音宣教を最初からチームワーク、すなわち教会としての使命と考えておられたのです。
▲私たちは、イエスによって新しい救いの契約に結ばれると同時に、その救いの福音を世界に告げる弟子としての務めを与えられたのです。
01月31日 B年 年間第4主日
預言者は、未来のことを予想する人ではなく、神様の言葉を預かって神の民に語る人です。
モーセのような正しい預言者は、「私(神)の名によってわたし(神)の言葉を語ります」。
しかし問題は、「わたしの命じていないことを、勝手にわたしの名によって語る」預言者が現れることです。これはニセ預言者と呼ばれます。
▲どの預言者の言葉を信じたらよいのか?神様は決定的な仕方でその問題を解決しました。
「権威ある者として教える方」、すなわちご自分の子であるイエス・キリストをこの世に送ってくださったのです。
イエスの教えは、言葉だけではなく、現実に働きかけ現実を変える力を持った教えでした。
▲私たちは、新約聖書にあるイエスの言葉を、神の言葉として受け止めることができる
のです。