03月07日 B年 四旬節3主日
今日の福音は、イエスの神殿の清めと呼ばれるエピソードです。当時のエルサレムの神殿は「聖なる場所」でありながら「市場や銀行のような場所」でもありました。
表面では、神殿に参拝する人々のために手助けをするとのもっともらしい理由をつけ、神を敬う姿勢を見せながら、実は私腹を肥やしている商人たちに対して、
イエスは過激な言動で、神殿を清めます。
イエスは神殿清めを行い、受難・死・復活を通して、表面的な清めではなく根本的な清めを実行することを示されたのです。
同時に、これから父なる神と出会う神殿は、イエスご自身に代わったと宣言されたのです。
さらに、イエス自身が神の子羊として十字架を通していけにえになられたので、神に対して牛や羊、鳩などの動物を捧げる必要もなくなりました。
私たちは、復活祭を迎える準備の期間である四旬節を過ごしています。イエスの神殿清めは表面的な清めではなく、根本的な清めでした。
私たちもそれに触れて、心の底から変えていただきましょう。
03月14日 B年 四旬節4主日
今日の福音、イエス様がニコデモという人に語った言葉です。ニコデモは、絶大な権力と財力を持つ有力者だったのです。
成功者のニコデモも、やがては死ななければなりません。そこで「永遠の命」を語るイエス様のもとへやってきます。
しかし、イエス様にその魂胆を見抜かれ、打ち砕かれてしまいました。
その後、イエス様と何回も会って話をするうちイエス様のファンになりました。
ニコデモは議会でイエス様について悪いことを相談しているのを聞くと、イエス様のことを守ろうとします。
そしてついに、イエス様が十字架に付けられた後、弟子として姿を現したのです。ニコデモはイエス様と出会って、信じる人に変えられえた人なのです。
ニコデモがイエスの弟子になるためには長い時間がかかりました。人が変化するためには、準備期間が必要です。
四旬節、私たちも準備の時間を取って、復活のイエスと出会う準備をしましょう。
03月21日 B年 四旬節5主日
「一粒の麦は地に落ちて死ななければ、一粒のままである。
だが、死ねば、多くの実を結ぶ」私たちは、この聖書のことばを、死別の悲しみの中で受け止めることがあります。
ヘンリー・ナウエンは、「私たちの死にもたらされた新しい意味を、そこに示されたのです」と言います。
失った人の存在の意味は、一番その人を愛した者に示されるのです。
そして、「愛が姿を現すのは痛みの中であることが多いのです」。
「一粒の麦」イエス・キリストはこの言葉の通り、ご自分の命を差し出され、十字架にかけられ、一粒の麦となり、私たちを罪と死から救って下さったのです。
イエスの弟子たちは、イエスの悲惨な死に直面し、悲しみのどん底に突き落とされました。
同時に、イエスを失った心の痛みの中で、イエスが示してくれていた愛の大きさも実感したはずです。
イエスの死によって、イエスを一番愛していた人々にイエスの愛の種が蒔かれました。それが花開いて、実をつけていったのです。
03月28日 B年 受難の主日(枝の主日)
受難の主日、私たちはイエス・キリストの受難について黙想します。
神に従う正しい人が、まったく神に見離されたような状況の下で、苦しまなければならないのはなぜなのだろうか?
しかし、聖書を読むと、預言者をはじめとして神に従う者は誰でも苦しみの道を歩むように思えるのです。
神に従う人が受ける苦しみとは?必然的な苦しみではないのです。自ら進んで引き受けていくような種類の苦しみなのです。
神に従うことをやめれば、まったく感じなくなる、そんな種類の苦しみなのです。
イエスは十字架への道の途中で、何度も十字架から逃れるチャンスがありました。
イエスにおいて本当の受難は、いつでも、その気になれば十字架から逃れられるという誘惑と戦うことではなかったかと思うのです。
肉体的な痛み、精神的な苦痛にまして、神との結びつきを切ってしまいたいという誘惑との戦いが本当の受難だったのではないでしょうか。
イエスは、誘惑に身を任せながらも決して退かず、自らその道を切り開いて見せてくれたのです。