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05月02日 B年復活節第5主日
ヨハネ福音書は、救いの神秘を表現するためにイメージ(表象)をよく使います。 しかも有効に、的確に用います。今日の福音に出てくる「ぶどうの木」も印象深いイメージです。 聖書では、植物界から取られたイメージは、静寂と平和、それに豊かな生命力と繁栄を示すと言われています。 イエスは、平和と繁栄、命とその豊かな生命力を得るために、ぶどうの木である私につながっていなさいと呼びかけられます。
イエスはまことのブドウの木、父なる神は農夫、私たちはブドウの房。 イエスが根から養分を私たちに送り、父なる神が丹念に世話をするので、私たちは豊かに実を結ぶことができるのです。 イエスがぶどうの木をたとえに用いた意味は、教会の姿に重なるからです。 ぶどうは房になっていて、まず粒ひとつずつがしっかりしていなければなりません。 実もそれぞれにつながっており、それが枝に結ばれていて実ることができます。 一粒は、家庭の教会、あるいは個人。それが結び合って房という教会になり、イエスと結ばれていく、そんなイメージなのです。
05月09日 B年復活節第6主日
今回のテーマは「互いに愛し合う」です。イエス様は「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」と弟子たちに告げられました。 「互いに愛し合う」ことはイエス様からの命令であり、掟でもあるのです。
旧約聖書の十戒と律法をまとめると、神を愛すること、隣人を愛すること、この二つに集約されるのです。 ところがこの二つの掟には、自分が起点となっていて、相手の反応が考慮されていないという限界があるのです。
その限界を超えたのが、ヨハネの福音書にある「互いに愛し合いなさい」との愛の掟でした。
イエス様は神への愛ではなくて神からの愛、自分が隣人を愛するだけではなく、隣人からも愛されると示すことで、旧約聖書の掟を完成に導きました。
父と子と聖霊の愛の交わりのうちにとどまるとき、私たち人間も互いに愛せるようになるのです。
05月16日 主の昇天の主日
今日は主の昇天の主日です。昇天とは広い意味では、人が神の世界に移されることを意味しています。 新約聖書では、昇天は何よりもイエスの昇天を指しているのです。
原始キリスト教会(初代教会ともいいます)は、「イエスは復活された後、天に(神の右に)上げられた」と信じました。 イエスは、神のすべての権限を与えられ、全世界と全歴史の主とされたのです。初代教会では、昇天とは「神の右の座に着いた」ことを言い表しているのです。 昇天は時系列的に起きた出来事ではなく、キリストは復活と同時に天の栄光に入り、この世の存在を超える方となって神の右の座に着いたのです。
40日間、弟子たちの前に現れたのは、キリストが天の存在になったことを示すためでした。 その後、神のもとへと決定的に帰ったのです。昇天の祝日は、キリストが神のもとへ決定的に帰還したことを祝っています。
イエスは昇天の前に弟子たちに、これからすべきことを命じられます。それは、イエスの証人になって福音を宣べ伝えることでした。 弟子たちは使徒として全世界に派遣されていったのです。
教会は使徒たちのわざを受け継ぎ、7つの秘跡を通して、主イエスが再び来られる再臨の時まで働きを続けるのです。
05月23日 聖霊降臨の主日
今日は聖霊降臨の主日です。第一朗読では、聖霊降臨の出来事から教会の誕生が語られます。
聖霊降臨の出来事を通して、はっきりとした変化が現れました。それは弟子たちの変化です。聖霊降臨以前の弟子たちは、弱々しい姿をした弟子たちでした。 ところが、聖霊降臨の後には、堂々と人々の前に現れてイエスのことを人々に告げ知らせるようになりました。 イエスは生前、弟子たちに聖霊を約束されていました。その言葉は実現し、弟子たちはイエスが天に帰られた後、聖霊によって強くされ、 福音宣教に出かけることができたのです。
聖霊は、私たちの世界にあって、神と人、人と人を結び合わせるために働いています。イエスが約束された聖霊を受けることができるのが堅信の秘跡です。 堅信を通して聖霊は、教会や社会に貢献できるように、一人一人に賜物(カリスマ)を与え、 自分に与えられた役割を果たすのに必要な能力を与えるのです。聖霊によって、私たちに与えられた使命を果たしてゆきましょう。
05月30日 三位一体の主日
復活したイエスはガリラヤの山で、イスカリオテのユダを除く11人の弟子に会いました。昇天によって天に帰る前に、弟子たちに最後の指示を与えます。
このとき、復活のイエスに出会い、ひれ伏してイエスに尊敬を表したにもかかわらず、疑う者がいたと、マタイ福音書は報告しています。 信じられないくらい正直な記述だと感じます。しかし、復活の出来事は心に疑いを生じさせるほどの出来事だったのだと思います。 人間は、自分の理解力を越えた出来事に出会うと、驚くと同時に「本当なのかな」と、心に疑いを抱くのではないでしょうか。
イエスは疑っている弟子たちに近づいて、指示をあたえました。弟子たちがイエスの指示に従うとき、疑いが克服されて、 「本当にあなたは神の子です」と信仰告白することが可能になるからです。 弟子たちの心に疑いが残っていても、宣教に向かうとき、共にいるイエスが弟子を教え導き、疑いを一つずつ晴らしてゆくのです。
ですから、完全な信仰者だけが宣教を行うのではなく、宣教活動の中で本当の信仰者へと成長してゆくのです。 私たちは心に疑いがあるだけではなく、信仰者としても不完全な者でしかありません。 しかし、父と子と聖霊の神が私たちを導いてくれるので、弟子としての歩みを続けることができるのです。