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06月06日 キリストの聖体の主日
 イエスは弟子たちとともにされた最後の晩餐の席上、新しい契約を残されました。 「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」とおっしゃって、動物の血によっては果たせなかった完全な贖いが、 イエスご自身の流される血によって現実になると、はっきりと宣言されたのです。
 イエスは弟子たちと過越の食事を共にするために周到な準備をしました。 それは、その時イエスの周囲には危険が迫っていたからです。 なぜなら、祭司長達はイエスを殺害する計画を立てていたし、ユダもイエスを裏切る企てを進めていたのです。 そのような状況の中、イエスは弟子たちと一緒に過越の食事を始めました。
 食事は、これまでの過越祭の食事と同じように進んでいきましたが、その途中でイエスは特別なことをし始めたのです。 それは、パンを取って弟子たちに示し、このパンは「私の体である」と言って弟子たちに配られたのです。 また、ぶどう酒の満ちた杯を弟子たちに示して「私の血である」と言って杯を弟子たちに回しました。 イエスはこうすることによって、過越の食事に新しい意味を付け加えたのです。 イエスは弟子たちに向かって、「私の体を食べ、私の血を飲むくらいにまで一致していこう」と呼びかけたのです。 それは十字架と復活の出来事を通じて実現していきました。 だから、イエスの過越の食事は、弟子たちとの新しい旅立ち(新しい関係に入っていく)の食事だったと言えます。
06月13日 年間第11主日
 今日の福音では、二つの神の国に関するたとえがイエスによって語られます。 最初のたとえは、人は種まきの後、収穫の時まで作物の世話をしますが、基本的に作物はひとりでに成長するという話です。 農夫は雑草を抜いたり、水をまいたりしますが、作物そのものを成長させることはできません。 あくまでも農夫は神を助ける者でしかありません。 芽を出させ、茎をのばさせ、実を実らせるのは神です。 しかし、神の働きを人間は見ることはできません。 農夫は、なぜ作物がひとりでに成長するのか知りませんが、どこかで神様が働いてくれていることに気づいています。 だから、神の働きに信頼して、自分のすべきことをするのです。
 第二のたとえの要点は、どんな種よりも小さいからし種が、芽が出ると、どんな野菜より大きく育つことにあります。 神の国も最初はものすごく小さいものでしかないのに、生え始めるとより大きなものになります。 神の国は、この世にあってすでに始まっています。それはまだ小さく、完全でもありません。 しかし、からし種が成長し、空の鳥が住み着くように、神の国もよりたくさんの人々が集まってきて大きな共同体へと育つのです。 神を信じる人は、目に見えない神の働きに信頼し、神の国の成長を待ちながら自分のすべき働きをすることができるのです。 私たちもたとえに出てくる農夫のように、神にすべてを信頼して働く人になりましょう。
06月20日 年間第12主日
 新約聖書には、地中海を航行する大型の船も登場しますが、今日の福音に出てくる舟は、ガリラヤ湖を行き来する比較的小さな舟です。 弟子たちの中にはペトロをはじめ漁師が何人かいました。彼らはガリラヤ湖で舟を操るプロでもあったはずです。 そのプロたちが危険を感じるほどの嵐に襲われたのです。ガリラヤ湖を渡る舟は、世を渡る教会の象徴であると言われています。 荒れる湖は、初代教会の使徒たちを襲った困難だったとも言えます。
 イエスの言葉に信頼して、この世を渡り始めた教会ですが、そこに嵐のような困難な事態が降りかかります。 イエスは枕をして眠り続けています。イエスはどんな現実の中にあっても平安ですが、弟子たちは我を忘れて狼狽し、眠るイエスを起こして助けを求めます。 荒れ狂う波風にかき立てられるように、弟子たちの心も騒ぎ立ちます。イエスは動じることなく、神の力によって波風に命じ、それを黙らせてしまいます。
 風を落ち着かせたイエスは、弟子たちに「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」と言われました。 「怖がる」「臆病である」と訳される語は、新約聖書では「不信仰」を意味します。 弟子たちの狼狽は、神に信頼しきれない不信仰から生じ、イエスの静けさと自然に対する権威は、神に対する絶対的な信頼に根差していたのです。 神への信頼の有無が、弟子たちとイエスの違いを生み出しています。 イエスは、どのような困難、苦しみにあっても神に対する絶対的な信仰が必要なのだと、弟子たちに示されたのです。
06月27日 年間第13主日
 荒れる風と湖をイエスが静めた後、ゲラサ人(異邦人)の地方に行って戻ってきたイエスと弟子の一行を、大勢の群衆が待ち受けていました。 救いを求めてイエスに向かって来る人々の信仰が描かれます。娘の癒しを願うヤイロの家に向かう途中、イエスは十二年間出血の止まらない女性の癒しを行います。 そして、ヤイロの娘を蘇生させました。
 会堂長ヤイロの娘(12歳)の死からのよみがえりの話に挟まれるように、12年間、出血が止まらない病気に苦しめられていた婦人のいやしのエピソードが置かれています。 いやされた二人の女性には12年間という共通点があります。 一方のヤイロの娘は、わずか12年の命で死んでゆかなければならないのです。 あまりに短い命です。他方、出血で苦しんでいた女は12年間もの長い間苦しみ続けていたのです。この二人の人生が交錯するとき、イエスのいやしの力が現れるのです。
 二人の抱える状況は違いますが、二人にはもうひとつ共通点があります。それは、絶望に支配されているということです。 若くして死んでゆかなければならない絶望と、どんなにお金を使って治療しても治らないという絶望です。 もう一人絶望している人物がいます。それは病気で娘を失う会堂長のヤイロです。その絶望は死ともいえるものでした。
 イエスはこの三人を絶望という死の淵から、希望の世界へと呼び戻されました。 イエスは出血の女に、「娘よ、あなたの信仰があなたを救った」とわざわざ群衆から探し出して告げています。 娘の死を知らされたヤイロには、「ただ信じなさい」と声をかけています。ヤイロの娘は、お父さんの信仰によって死からいのちへと呼び出されたのです。
 出血の女とヤイロが信じていたのは、絶望を希望に変える力のある、そして死を眠りに変える力のある父なる神でした。 その力がイエスを通して現実にもたらされると信じていたのです。 「恐れることはない。ただ信じなさい」このイエスの言葉を心から信じるとき、私たちの目の前にある絶望は希望に、死は命へと変えられてゆくのです。