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07月04日 年間第14主日
 今日の福音、イエスは神の国の福音を伝え始めます。故郷のガリラヤに帰り、会堂で教え始められます。 イエスの新しい教えと、奇跡に人々は驚きます。「この人は、このようなことをどこから得たのだろうか? この人が授かった知恵と奇跡はいったい何か?」 その驚きにはイエスに対する反発や悪意は感じることができません。 しかし、「この人は、大工ではないか、マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。 姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか」と考えたとき、イエスにつまずいたのです。 イエスも驚く不信仰を人々は見せたのです。
 なぜこのようなことになってしまったのでしょうか? イエスの故郷の人々は、イエスのことを子どもの時から知っていました。 イエスの家族のこともよく知っていました。ですから、よく知っている人物であるイエスが神から派遣された救い主であるとは思えなかったのです。 自分たちの常識に邪魔されてイエスのことを正しく見る事ができなかったのです。 人間をはるかに超える神の計画を、小さな人間の常識の枠に押し込めることはできません。 その無理をしようとして、イエスも驚くほどの不信仰へと陥ってしまったのです。
 私たちはイエスの故郷の人々を笑うことはできません。なぜならば、同じことをしてしまうからです。 神の計画を自分の常識に当てはめて判断しようとする力は強力です。 イエスもご自分の力を発揮することができないくらいの力を持っています。 イエスでさえも、驚き、嘆き、他の町へ行くしかなかったのですから。 私たちも自分の常識を越えて、神の計画を理解するのは困難でしょう。神の思いを理解し、協力するためには、自分の中にある常識と戦う覚悟が必要です。 常識を疑い、神の思いをまっすぐに受け取ることが求められます。それはかなり困難な戦いになるでしょう。
07月11日 年間第15主日
バビロン捕囚の後、預言者が現れなくなります。 プロの預言者が否定されたわけではありませんが、彼らが人間社会に埋没してしまい、神との関係が薄くなっていたので、神は別の道を用いて救いの歴史を導きます。 イエスの派遣はその極めつけの歴史への介入でした。神はご自分の子であるイエスを派遣して、ご自身の思いを地上に現わそうとされました。
マルコ福音書3章で、イエスはこれはと思う人を呼び寄せて、12人を任命して使徒と名付けました。その使徒たちが派遣されてゆきます。 イエスは、当時の宗教的指導者が世の中の権力者と同じようなものになってしまい、神の思いを伝えたり、現わしたりすることをやめてしまっているのをよく知っておられました。 だから、使徒たちの教育には細心の注意を払っています。
派遣する前にイエスは、たとえ話と奇跡の業によって、神の国について弟子たちに教えています。 今日の福音箇所でも、イエスは細やかに配慮しています。 出発前にはご自分の汚れた霊に対する権能を授け、旅の途中には事前にイエスが用意したのかもしれませんが、 宿を貸してくださる方の好意と神の配慮に任せるように教え、また、派遣先に着いてからとるべき態度も指示しています。 イエスの導きにより、使徒たちはその役目を果たすことができたのです。
07月18日 年間第16主日
12人の弟子たちは、イエスによって宣教に派遣されました。弟子たちは、使命を果たして、再びイエスのもとに集まってきます。 戻ってきた使徒たちは、イエスのところに集まって報告をします。 報告を聞いたイエスは、「人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と声をかけました。 報告している間にもたくさんの人がイエスのところにやってきて、病気の治療や願い事をしていたので、使徒たちもその対応に追われていたからでした。
休む」「アナパウオー」は、「アナ」=「後ろへ」と「パウオー」=「終わらせる」の合成動詞ですから、「現場から退いて休む」ということです。 休むことは、愛に基づく慰めから生まれる安らぎを得ることであり、そこから「元気づける」という意味になります。
イエスが使徒たちの疲れを察して、休むことを勧めた思いやりの言葉だったとも受け取れますが、それだけではなかったことでしょう。 体を休息させるだけでなく、使徒たちは愛に基づく慰めから生まれる安らぎを得て元気づけられる必要があったのです。
「人里離れた所」は神との交わりに専念できるところであり、イエスも父なる神と一つになるために祈ったところです。 イエスの弟子たちも同じように人里離れた場所で憩い、神から生きる力を与えられ、体も心も元気づけられ、神の国の宣教を担う力を受ける必要がありました。 それは、群衆に深い憐れみを示すイエスと共に働き続けるためだったのです。
07月25日 年間第17主日
このパンと魚の出来事は、マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの四つの福音書、すべてに伝えられています。 しかも重要な出来事として報告されています。 ヨハネ福音書は、「カナでの婚宴」に始まるイエスの奇跡を「しるし」と呼んでいます。 この五千人に食べ物を与える奇跡も、それを通して真理を知るための「しるし」として述べています。 ヨハネ福音書は、この奇跡の後で、イエスこそが「天から降ってきた命のパン」であり、永遠の命を与える者であることを明らかにしています。 大勢の群衆がイエスの後を追いかけたのは、5章にある「ベトサダの池で病人をいやす」出来事の中に「しるし」を見たからです。
今日の福音の個所の結びを見ると、群衆はイエスを驚くべき奇跡を起こすものだとは認めながらも、不十分な信仰にとどまったままであることが分かります。 群衆は、イエスが行った奇跡のしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言い、イエスを王にするために連れてゆこうとします。
確かにイエスは「預言者」であり「王」なのですが、群衆が考える「預言者」や「王」ではなく、神の想いを地上に示す「預言者」であり「王」なのです。 しかし群衆は自分たちに都合よく解釈して、自分たちの願望を実現する「預言者」や「王」にイエスを仕立て上げようとしました。 この認識の違いが後に大きな問題になってゆきます。