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08月01日 年間第18主日
 ヨハネ福音書6章はとても長い章ですが、イエスは何者であり、その使命は何かというテーマが展開されます。 5つのパンと2匹の魚を5千人に分け与えられた翌日、イエスを捜して多くの人が集まってきます。
 イエスと群衆のやり取りのテーマは、「しるし」です。 しるし、「セーメイオン」は、目印・しるし・合図を意味します。また、不思議な出来事・奇跡を表します。 奇跡は神の働きを示す合図なのです。ところで、奇跡を表す言葉には、「デュナミス」もあります。 デュナミスは、救いをもたらす神の支配を具体化する奇跡のことです。信仰がなければ理解することのできない奇跡なのです。 セーメイオンは、神から遣わされた者が自分を承認させるために行う業で、人々にせがまれて行う奇跡なのです。 ヨハネ福音書では、デュナミスは出てきません。セーメイオンがよく使われます。 これは、福音記者ヨハネが、イエスの奇跡はご自身が神の子であることを示すしるしだと明確にするためなのです。
 今日の朗読箇所では、セーメイオンが二度出てきます。 群衆がイエスのもとに押し寄せたのはパンを食べて満腹したからであって、「しるし」を見たからではないとイエスは見抜きます。 一方、群衆はイエスを信じるためにどんな「しるし」を行ってくれるのかと問い、しるしを強要します。 イエスのパンは一つのしるしでしたが、群衆はそれを見落とし、別のしるしを求めます。 このようにイエスと群衆の会話は、かみ合いません。かみ合わないどころか、どんどんずれてゆきます。
 イエスが「神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである」と説くと、群衆は「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と求めます。 群衆は、自分たちの理解にとどまり、胃袋を満たす食べ物のことだけを考えています。 イエスが説いたパンは、神の言葉であり、イエス自身の肉と血のことだったのです。
08月08日 年間第19主日
パンをめぐるイエスと人々とのなかなかかみ合わない対話の中で、イエスは何者であり、その使命は何かが次第に明らかになってきます。
第一朗読、王妃イゼベルに命を狙われたエリヤは、安全な場所へ退き ました。神は使いを送って、エリヤにパンと水を与え元気づけました。エリヤはその食べ物に力づけられて旅を続け、神との出会いに導かれました。 この物語は、神を信じて神のために戦う人を、神がいかに助けるかについて語っています。
今日の福音、イエスは、神がエリヤにしたのと同じことをするのだと表明されています。それを「わたしは天から降ってきたパンである」と表現しているのです。 まずイエスは「私のもとに来る」とご自分のところが安全であると宣言します。 イエスのもとに来る人には、安全が約束されているのです。そして、永遠の命を得ることができるのです。 そして私自身である命に至る食物としてのパンを食べさせると約束しています。そして、そのパンを食べた人は、永遠に生きるようになるのです。
私は天から降ってきたパンである。生きたパン、いのちを与えるパン。食べると永遠の命を得ることができるほど力がもらえるパン。 そのパンをいただくために、たった一つ必要なのは、イエスを信じることだけなのです。つまり信仰をもってパンをいただくことだけが必要なのです。
芦屋教会、甲子園教会では今日から公開ミサを再開します。喜びの内に、天から降ってきたパンであるイエスのご聖体をいただきましょう。
カトリック教会は、いま平和を祈り求める平和旬間を迎えています。聖体をいただきながら、平和を作り出すために働きましょう。
08月15日 聖母の被昇天
今日、8 月15 日は日本ならびに日本の教会にとって大きな意味のある一日です。 フランシスコ・ザビエルによって日本にキリストの教えがもたらされた日、 1603 年、江戸の地で最初にミサが行なわれた日、さらに幕末、沖縄に再宣教のためパリミッション会の宣教師がたどり着いた日です。 終戦記念日で、平和旬間の最後の日でもあります。
新約聖書を見るとマリアが登場する場面は思ったよりも少なく、聖母マリアが死を免れてあるいはこの世の生を終えて、天に昇られたとは言われていません。 ですから、聖母の被昇天の信仰は、聖書から生まれたのではなく、聖書に基づいて黙想することによって形作られてきたのです。 マリアは神の救いの業に協力するために、特別に選ばれ、ふさわしい者とされたので、原罪と死を免れたのです。
福音朗読で「マグニフィカット」が朗読されます。すべてにまさって神を大切に思うマリアの感動・喜びが表現されています。 カトリック教会は、マリアを信者の模範として特別に尊敬しています。 それは、マリアのように神を自分の中心にして喜びの内に生きるなら、救いの協力者として選ばれ、恵みに満たされるからなのです。 マリアを模範として生きる恵みを願い求めましょう。
08月22日 年間第21主日
第二朗読、パウロはキリストと教会の関係を、夫婦が互いに仕え合う結婚にたとえて説明しています。 ヨハネの福音では、イエスとペトロが「言葉」について言及しています。 イエズス会の岩島忠彦神父さんは、著書「キリストへの道」の中で、神がキリストを通して語られた言葉(福音)は、 「私と結婚してください」という「まさにその言ったことが、決定的な意味を持つような」神のプロポーズなのだと言っておられます。
イエスはわたしの「言葉は霊であり、命である」と言います。それを受けてペトロは、「あなたは永遠の命の言葉を持っておられます」と答えます。 多くの弟子たちが神のプロポーズの言葉であるイエスの言葉に耳をふさぐ中で、ペトロをはじめとする12弟子たちはプロポーズを受け入れたのです。
第一朗読、「主に仕えたくなければ、仕えたいと思う他の神を選びなさい」というヨシュアに、イスラエルの民はエジプトの国から導き出してくれた神に仕えると言います。 神のプロポーズの言葉を受け入れ、洗礼を受けてキリストと結ばれた人をキリスト者と呼ぶのです。 「あなたに仕えます」と答えた日から、キリスト者としての歩みは始まるのです。
08月29日 年間第22主日
今日の福音のテーマは「汚れ」です。汚れたらそのまま放置するのではなく、汚れた部分を清めなければなりません。 ファリサイ派の人々は、清めのために細かいルールを作っていました。 例えば、手を洗うとき、清めのための特別な水差しに入れた水でなければダメ、 まずひじまで着物をめくり、手を垂直に立てて、指先からひじまで水を流さなければダメ、 よくこすり洗いをして、最後にひじから指先に水をながさなければダメ、というように細かいルールを作り、 その上「やり方」そのものを絶対視してゆきました。さらに、自分たちのやり方と同じでない人々を攻撃して、排除してしまっていたのです。
それに対して、イエスは、人間の作り出した慣習にすぎないことにこだわるファリサイ派のたちの愚かさを指弾したのです。 イエスは人を汚すものは、外から人間の体へ入るものではなく、むしろ人の心から外に向かって出てゆくものであると宣言されます。 これはとても重要で、かつ画期的なことなのです。
わたしたちの間でも「これでなければ、このやり方でなければ」と思っている「こだわり」があるはずです。 しかし、そのこだわりはイエスからみて本当に価値のあるものでしょうか?