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10月03日 年間第27主日
今日の福音では、ファリサイ派の人々がイエスのところに来て、「離婚は律法に適っているか」と質問します。 イエスは、天地創造の物語から始めて、離婚について答えました。 法律に書いてあるルールがあるから、離婚できたりできなかったりするのではないのです。 結婚に当たっては、二人だけでなく、二人を取り巻く周りの人の協力、神様の力が働いてきたはずです。 そのようなことを無視して、身勝手に離婚するのは神の想いに反することだと、イエスは答えました。
イエスは、創世記の時代から、人間同士の関係が理想的であったとは思っていなかったことでしょう。 人間は、神との関係を壊し、互いの関係もうまくいかなくなって楽園であるエデンの園から追放されてしまったのです。 そのような状態を超えて、人間が結婚生活を維持するには、神様の助けが欠かせません。 結婚生活を維持するのは、離婚が禁止されているからではなく、神様に助けられながら互いに協力し、足りないところをカバーしながら生きるためなのです。 努力を続ける夫婦に、家庭に神は豊かな祝福を与え続けてくださるのです。
10月10日 年間第28主日
エルサレムに向かう旅の途中、イエスは様々な人々に出会い、弟子としての道を教えます。今日の福音では、金持ちの青年と出会います。
「永遠の命を受け継ぐには何をすれば?」とひざまずいて問い、「『十戒』の示す掟を子供のころから守ってきた」と答える青年に、 イエスは「あなたには足りないものが一つある。持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に施し私について来なさい」と言います。
青年の問いが「今の命を永遠に保って、金持ちであり続けるにはどうしたらよいのでしょうか?」だったなら、イエスの言葉を受け入れることはできません。 実際、彼はイエスのもとを去ってゆきます。
イエスが青年に財産を金に換えて施すように迫ったのは、永遠の命がこの世の命を長らえることではないと教えるためだったのです。 そしてイエスが本当に言いたかったのは、青年とのやり取りで抜けている「十戒」の前半、主である神のみを礼拝し、仕えるということではないでしょうか。
神に仕える生き方とは、神の想いを実行することです。神は、自分の持ち物を貧しい人々と分かち合うことを望んでおられるのです。 神と共に生きるためには、財産を頼みにするのではなく、神だけを頼りに生きていくべきだと、イエスは青年に伝えたかったのです。 この青年の悲しみは、この世のことにがんじがらめになって神にだけ頼ることのできない、私たちの悲しみでもあるのです。
10月17日 年間第29主日
イエスは、エルサレム=十字架に向かう道で、弟子たちに三回目の受難予告をします。 そのころには弟子たちもさすがに、エルサレムで大変な運命が待ち受けていることがわかってきます。 しかし、それが苦しみだけで終わるとは思っていませんでした。最後にイエスが敵対するファリサイ派に勝ち、ローマ帝国を破って勝利を手に入れることを信じていました。 そこで、ヤコブとヨハネはイエスに、遠慮がちにしかし大胆に、勝利を収めたあかつきには特別な地位を下さいと願い出たのです。
「わたしたちがお願いすることをかなえて下さい」とは、先週の金持ちの青年の態度と比較してもかなり、自己中心的な響きがあります。 この二人はかつてペトロとともにイエスさまの変容の栄光を目撃しています。 それゆえに、自分たちは弟子団のなかでも特別な存在だと自負していたのでしょう。 その自負が特別なお願いとして口から出たのです。
ヤコブとヨハネの大きな勘違いによる願いに対して、イエスは「栄光」よりも「栄光に至る道」つまり「苦しみ」について語ります。 それが「杯と洗礼」という表現であらわされています。 旧約聖書では「杯」はしばしば「苦しみ」を意味します(詩篇75:9、イザヤ51:17~22、エレミヤ25:15、エゼキエル23:31~34)。 洗礼も「水の中に沈む」という意味でしばしば非常に大きな苦難の体験を表わしています(詩篇42:8、69:2,15、イザヤ43:2、ルカ12:50も参照)。
イエスは弟子たちに栄光を求める生き方とは違う生き方を示し、ご自分が全人類に仕えるために来られたこと、その究極の姿が十字架の死であることを示されます。 さらに、教会を成立させる本質が「仕えること」であるとイエスは教えられました。 イエスは低くされることを喜べと教えられます。仕えることに喜びがあると教えられました。
10月24日 年間第30主日
イエスは弟子たちにご自分の受難と復活を三回予告します。最後の予告の時、イエスは十字架の刑を宣告されるエルサレムに上ると告げられました。 イエスと弟子たちがエルサレムに入る直前、エリコの街を通り過ぎようとされたところで、盲人のバルティマイと出会いました。
イエスとバルティマイの出会いに、「道」が重要な役割を果たしています。エリコからエルサレムへ「その道」を進もうとしているイエスたち一行、 「その道」のわきに座っているバルティマイがいます。イエスに呼ばれて、服を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのもとへ、つまり「その道」へとやってきます。 癒されたバルティマイは、「その道」を進まれるイエスに従ってゆきます。
目の見えないバルティマイは物乞いをして日々の糧を得ていました。 人の好意にすがるよりほかに、生きていく糧を得ることができませんでした。非常に惨めな状態だったのでしょう。 救いを求めて叫び続けるバルティマイの声に、イエスは足を止めて呼び寄せます。この場面、イエスの十字架を連想させます。 イエスは十字架の上で死の間際、大きな声で叫ばれます(15:34)。それに応えるかのように、神殿の垂れ幕が裂けます(15:38)。 父なる神の応答だったのです。バルティマイの目が開かれたのは、イエスの復活を前もって表す出来事だと考えられます。
10月31日 年間第31主日
今日の福音の個所に登場する律法学者は、イエスの敵対心を抱いていないばかりか、むしろイエスの正しさを認め、イエスに心を開いています。 この律法学者の「どの掟が最も重要でしょうか?」という問いに対するイエスの答えは、あっけないほど明確です。 「心をつくして神を愛しなさい」と、「隣人を自分のように愛すること」でした。第一、第二というのは、掟の優劣ではなく、一つ目、二つ目という順序を表しています。 イエスは、「この二つにまさる掟はほかにない」と、他の律法の掟を相対化しました。ここにイエスの新しさがあります。
この答えを聞いた律法学者は「おっしゃるとおり」とイエスに賛同します。 彼は「神は唯一である」とのイエスの言葉に「ほかに神はない」と付け加え、さらに神への愛と隣人への愛を一つにまとめて、 それが「どんな献げ物やいけにえよりも優れている」と応じました。彼はイエスの言葉を補った上に、 イエスが分けた神への愛と隣人への愛、この二つの愛が表裏一体のものであると解釈したのです。 神の愛に出会った者は、隣人への愛に目覚めるのです。この解釈はイエスの想いを正しく受け止めたものでした。 それなのでイエスは律法学者に対して「あなたは神の国から遠くない」と言って賞賛しました。
しかし、律法学者に足りなかったものは、イエスが神の子として、神から人への愛とその応答としての隣人への愛を生きたと信じること、 また、イエスに従って、イエスに倣って、その愛を生きようとしなかったことなのです。
イエスは、私たちに愛の実践を求めているのです。