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1月2日 神の母聖マリア・世界平和の日ミサ説教から
 2022年、今年一年の始まり、私たちは神の母聖マリアの祭日を祝います。集会祈願にあるように、神がおとめマリアを御子の母として選び、 救い主を人類に与えてくださった事を記念します。このミサでは同時に、世界平和の日として、個々人の心、家族の関係、社会での関係、 環境との関係、民族間や国家間の関係において平和がもたらされるように祈ります。
教皇フランシスコは、今年も「世界平和の日」メッセージを公表されました。 今年のテーマは、「世代間対話、教育、就労──恒久的平和を築く道具として」です。私なりに要約してお知らせしたいと思います。
聖パウロ6世は、平和の道に全人類的発展(インテグラル・ディベロップメント)と名付けましたが、多くの人に実生活、そして人類家族の現実はほど遠いところにあります。 正義と平和を請い求める貧しい人の叫びと大地の叫びは、やむことがないのです。
いつの時代でも、平和は天から授かるものであると同時に、共同で担った責務の実りでもあります。 今こそ、より平和な世界を築くために、すべての人が力を合わせるべきです。
ここで教皇は、恒久的平和を築くための三つの道を示します。それは、①世代間対話、②教育、③就労 という三つの道です。
① 世代間対話:「対話とは、互いに耳を傾け、向き合い、納得し合い、ともに歩むことです。 対話をすべての世代間で促進してゆくことで、永続的に共有できる平和の種を育てるために、紛争や排斥という固く不毛な土壌を耕すことになるのです。 現代の危機を乗り越え、重要な社会的課題を解決し平和を構築するためには、記憶の守り人である高齢者と歴史の継承者である若者が対話を通して手を結ぶ必要があります。 そのためには対話者間の信頼関係が必要なので、相互の信頼を取り戻さなければならないのです。
② 教育と養成:教育と養成は、人間をより自由で責任あるものにし、平和の擁護と推進のために不可欠で、希望、富、進歩を生み出す市民社会の基礎なのです。 しかし、近年教育と養成のための予算は、投資ではなく費用と見なされ、世界的に削減されています。 その一方で軍事費は増大しています。政治的責任をもつ者が、教育への公共投資と軍事費の比率を逆転させる経済政策を策定することが、時宜を得た緊急の課題なのです。
③ 就労:就労とは、平和を構築し維持するために不可欠の要素です。 かねてから様々な課題が山積みされていた労働市場は、新型コロナウイルスのパンデミックによって悪化しています。 また、移住労働者の多くは国内法で認知されておらず、あたかも存在しないかのような扱いを受けています。 就労は、それぞれの社会において、正義と連帯を築く基礎となるものです。 したがって、企業に対して労働者の基本的人権の尊重を強く促す取り組みを奨励し、歓迎し、支援して、諸制度のみならず、消費者、市民社会、実業界の側でも、 こうした意識を高めてゆかなければなりません。 フランシスコ教皇は、メッセージの最後を「政治家、政治的・社会的責任を担う人、教会共同体の司牧者とリーダー、 そして善意あるすべての人に向けて、世代間対話・教育・就労の三つの道を勇気と創造性を持って進み続けましょう」と訴えておられます。
※教皇メッセージのコピーが必要な方は、主任司祭に申し出てください。
1月9日 主の洗礼
今日は「主の洗礼」の祝日です。それは年間第一主日とも呼ばれる日曜日です。 主イエス・キリストが宣教生活を始められる前に、洗礼者ヨハネからヨルダン川で洗礼を受けられたことを記念します。
イエスの時代にも、水で洗うことは衛生的な観点からも宗教的な観点からも大切にされていました。 食事の前の手洗い、外出先から戻れば足を洗い、たびたび全身をプールのようなところで水に浸す沐浴が行われていました。 このようにユダヤ人が励んでいた水による清めを「水」による洗礼、 すなわち人生一回限りの悔い改めの洗礼、「メシア(救い主)をお迎えするための清め」の洗礼に変えたのが洗礼者ヨハネでした。 それをイエスは、キリスト教的な意味を持った洗礼、すなわち「聖霊と火」によって授けられる洗礼、人々を「神の愛する子、心にかなう者」とする洗礼に変えたのです。
私たちが洗礼を受けた時、天の父から「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者」と声をかけられ、心にそのことを刻み付けられます。 それを霊印(カラクテル)と呼びます。
カラクテルはいつもわたしたちに、神に愛される子どもとしてイエスとともに歩むように促しているのです。 その意味で、主の洗礼は、私たちの原点である洗礼を思い起こす日なのです。イエスに従ってゆく決意を新た にしましょう。
1月16日 年間第2主日
ヨハネ福音書によると、カナの婚礼はイエスの最初のしるしです。福音記者ヨハネは、カナの婚礼を、三日目の出来事だと記しています。 三日目と聞くと、私たちは何を連想するでしょうか?そうです、イエスが三日目に復活したということです。 カナの婚礼の出来事は、ヨハネ福音書19章からのイエスの十字架の出来事と深く結びついていると考えられるのです。
イエスの十字架のそばには、イエスの母が立っていました。その母に向かってイエスは「婦人よ」と呼びかけています。 カナの婚礼のときと同じ呼びかけです。イエスは「ぶどう酒がなくなった」と告げる母に、「わたしの時はまだ来ていない」と返事しましたが、 それは十字架の時であると考えられます。 つまり、最初のしるしであるカナの婚礼ではまだ時は来ていなかったのですが、最後のしるしである十字架こそわたしの時だったのです。
カナの婚礼は、「それで、弟子たちはイエスを信じた」という言葉で締めくくられています。イエスは、この世界のあちらこちらにご自分のしるしを表されているのです。 私たちは、そのしるしを見つけて、イエスへの信仰を深めることが求められています。今年もイエスのしるしをしっかり見つけて行きましょう。
1月23日 年間第3主日 神のことばの主日
三つの朗読の共通したテーマは「つながる」です。
第一朗読のネヘミヤ記では、捕囚から解放されたイスラエルの民が、再び主なる神と「つながって」再出発する場面が朗読されました。 祭司エズラによって律法の書が朗読されます。それを聴きながらイスラエルの民は、自分たちの罪を思い起こして涙を流します。 その涙はやがて、主なる神とつながって生きてゆくことが出来るという喜びと希望の涙へと変わってゆきました。
第二朗読、使徒パウロのコリントの教会への手紙では、イエス・キリストに「つながって」歩んでゆく教会共同体は、 人間の身体のように様々な部分が「つながって」歩んで行かなくてはならないという聖パウロの言葉が読まれます。
ルカによる福音では、イエスはイザヤの預言を通して「主の霊がわたしの上におられる」「主がわたしに油を注がれた」「主が私を遣わされた」と、 父なる神とイエスとの深いつながりを人々の前に明らかにされました。
三つの朗読をまとめると、三つになります。 ①私たちは三位一体の神としっかりつながることが大切です。 ②教会共同体の中で、信仰をともにする人々とつながることが大切です。 それぞれの人が持つ役割や使命を尊重し合いながら、しっかりとつながらなければなりません。 ③私たちが神と人につながるのは、神から与えられた使命を果たすためです。使命にもつながっている必要があります。
私たちキリスト者の使命は、三位一体、父と子と聖霊の神に社会をそして人をつなぐことなのです。そのために、神の言葉を語り継いでゆきましょう。
1月30日 年間第4主日 
福音朗読で読まれたナザレにおけるイエスの説教の後半部分、「この聖書のことばは、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」は、自分は神と等しい者であると、 イエス自身が宣言されたということです。人々は、イエスの発する恵み深い言葉、力強い言葉に感動し、イエスを称賛する一方、 「この人はヨセフの子どもではないか」、そのイエスが自分は約束の救い主だと言っているようだと疑問を差し挟みます。 「イエスとは一体何者なのか?」、人々はイエスに出会って、神なのか? 人なのか? と、とまどいを感じました。
もし、人々がイエスを神に等しい者、約束された救い主だと認め、受け入れることができたなら、イエスを殺そうとするようなことにはならなかったことでしょう。 イエスを自分たちと同じ人間だと思い、その人間がエラそうに「救われるのはあなたたちユダヤ人ではなく、異邦人なのだ」というので、 ええ加減にせえ!と憤慨したのでした。そして、イエスを拒絶して、殺そうとしたのです。
「イエスとは何者か?」信仰の道を歩む私たちにとっても、これは大切な問いです。 なぜなら、信仰の本質はイエスを何者だと信じているかにかかっているからです。