3月6日 四旬節第1主日
人生は試練の連続です。試練のない人生は考えられないでしょう。
試練の大小、深刻さに違いはあったとしても、まったく試練に会ったことはないという人はいないと思います。
今日の三つの朗読が示しているのは、試練は確かに厳しいものではありますが、同時に神に出会う場となるということです。
第一朗読では、イスラエルの民が受けた試練も、それを乗り越えることができたのも、
その結果受けた恵みも、すべては神から与えられたものであることが語られています。
第二朗読、パウロはたくさんの試練を受けた人ですが、その中で得た結論は、「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」ことでした。
パウロも試練の中で神への信仰を深めたのです。イエスは、悪魔からの誘惑を受けられ、それを跳ね返すことで父なる神との一致を
見出しました。
試練は、聖書の登場人物たちにとっても、私たちにとっても、つらく厳しいもので打ち勝つのは困難です。
試練に負けて、神を見失う危険性も十分にあります。しかし、試練の中で神と出会うこともあるのです。
3月13日 四旬節第2主日
毎年、四旬節の第二主日の福音朗読は、主の変容と呼ばれる箇所が選ばれています。
その冒頭、ルカはイエスがペトロ、ヨハネ、ヤコブを連れて、「祈るために山に登られた」と報告しています。
重ねて「祈っているうちに」イエスの姿が変わっていったと言います。
このように二度も祈りに触れているのは、イエスの祈りと変容の出来事が密接につながっているからです。
ルカはイエスの祈りを大切にしています。
ルカが描くイエスは祈りの人でした。ルカが報告するイエスの祈りは、福音の中に 7 つ出てきます。
①洗礼、②12弟子を召し出した、③十字架の死の予告、④変容、⑤主の祈りを12弟子に授ける、⑥ゲッセマネでの祈り、⑦十字架の上での祈り
これら7つの祈りの中心に変容があります。つまり、変容の出来事におけるイエスの祈りがイエスの人生の中で頂点になる祈りだったのです。
変容の祈りにおいて、イエスは父である神と完全に一致していったのです。
完全に一致したというのは、イエスが自分の望みを一切捨てて、父なる神の望みに生きるということでした。
祈りは生活と信仰を結びつける絆です。イエスの変容における祈りは、私たちが四旬節を過ごすモデルになるものです。
3月20日 四旬節第3主日
回心とは、心を回すことです。神様の方向へ心を向けることが回心なのです。
回心とは、神様からの呼びかけに気づいた人が、その呼びかけに従って回心しようと決意し、神様の力を借りて心を神に向けなおすことなのです。
イエスはいちじくの木たとえを話しました。ブドウ園にあるいちじくの木は、私たちです。
ブドウ園の主人らしい「ある人」は父なる神です。園丁はイエス・キリストです。長い間実をつける、つまり回心の実をつけない私たちに神の裁きが近づきます。
しかし、その時イエスがとりなしてくださいます。
「もう少し世話をしますから、待ってください」、イエスは父なる神に頼みます。
イエスは、このたとえで、イエスが必ず回心できるように助けるから、そして父なる神に待ってもらうから、早く回心しようと思いなさい。
必要なのは、回心する努力なのではなくて、回心させてくださいと心から神に願うことなのです。
そのようにイエスは呼び掛けておられるのです。
回心は、神の助けがあれば、それほど難しいことではありません。
回心を難しくしているのは、神に助けてもらうことなく、自分の力で何とかしようともがくことです。
必要なのは、イエスに「私、回心したいのです。どうか助けてください」と、願うことです。
3月27日 四旬節第4主日
今日の福音は「放蕩息子のたとえ」、とても有名な箇所です。このたとえのタイトルは、「父と二人の息子」のほうがいいと思います。
なぜなら、このたとえは、徴税人や罪びと:神から見放されていると感じている人々、
ファリサイ派の人々や律法学者:自分達こそ神のそばにいて神のために熱心に働いていると思っている人々に向けて、イエスが神のゆるしを説いているからです。
たとえの中心は、弟にも兄にもやさしく語りかけ、家族としての絆を守ろうと働く父の姿にあるからです。
パウロは「神は、キリストを通して私たちをご自分と和解させた」と言います。
放蕩の果てに帰ってきた弟を受け入れる父、弟が父に温かく迎えられることを受け入れない兄に、一緒に迎えようと諭す父の姿。
このたとえに出てくる父の姿は、私たちに「罪の責任を問うことなく」和解のために働きかける 父なる神様の姿と重なります。
和解には、①自分との和解、②周りとの和解、③超越者との和解、この三つがあると言われます。パウロはこの三つの和解の任務は、
教会にゆだねられたと言います。神は和解の言葉を教会に委ねられたのです。