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使徒的書簡「主の日」について 
ラウレンチオ 小池二郎神父
 四年前、司教と司祭と一般信徒に向けられた教皇ヨハネ・パウロ二世の使徒的書簡「主の日」(日曜の重要性について)が出ましたが、 今も意義深い書簡だと思います。 実際、読んだ人の中で評判が良く、カトリック中央協議会から日本語訳が出ています。 日本語訳の本文は、四百字詰め原稿用紙約100枚の長さで、目次は、次の通りです。
 序文。第一章、主の日、創造主の仕事を祝うこと。第二章、キリストの日、復活した主の日、 聖霊の賜物の日。第三章、教会の日、感謝の集いは日曜の中心。 第四章、人間の日、日曜は喜びと休息と連帯の日、第五章、この上ない日、日曜は時間の意味を明らかにする根源の祝日。結び。
 出来るだけ多くの信者の皆さんに直接この書簡を読んでいただきたいのですが、 この紙面で不十分ですが、幾らか紹介させていただこうと思います。
 しかし、この要約を大変難しく感じます。
ミサは比類のない体験
 教皇様はこの書簡の結論の一つとして日曜とミサの必要性について、次のように言われます。
 「日曜の霊的な豊かさと司牧的な豊かさは、伝統によって私たちに伝えられてきたように、まことに重要です。 日曜の特徴と隠された意味を十分に理解するなら、日曜は、ある意味でキリスト者の生活を統合するものとなり、 またそれを良く生きるための条件となります。 そのことから、なぜ主の日の遵守が教会の心と密接なつながりがあるのか、 また、なぜ主の日の遵守は教会の教えの中で真の義務として残っているのかが明らかになります。 けれども、掟であること以上に、主日の遵守は、キリスト者の生活の深みから生れてくる要求と見なさなければなりません。 次のことはきわめて重要です。 すべての信者は、日曜に行われる感謝の祭儀に繰り返し参加しない限り、 自分の信仰を生きることが出来ず、また、キリスト者の共同体の生活に十分に参加することが出来ません。(下線は筆者による)  聖体祭儀は、人類が神にささげるべき礼拝を、完全な形で実現するものであり、 また、それは他のどの宗教的体験とも比較できるものではありません。」(81)
 何ゆえ、日曜ごとにミサに与らなければならないか。それは、私見では、 何ゆえ信者は純潔を守らなければならないかを言葉で説明するのと同じくらい難しいことのように思いますが、 この使徒的書簡は、わたしのこれまでは知らなかったことも示しながら、それに良く答えていると思います。
立法の遵守か行いか
 わたしたちが神の国、そして最終的には天国に入ることの出来るのは、 「律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、 信仰に基づいて神から与えられる義」(フィリピの信徒への手紙3章9節)によるのであって、 行いによるのでも立法の遵守によるのでもありませんが、そうだからと言って、 何もしないでよいというわけではありません。 信者は自然法と最小限度に教会が要求する教会の掟は守る必要があります。 キリストの十字架の死によって旧約の多くの掟は廃止されましたが、 十戒は残りました。 イエス・キリストは「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。 廃止するためではなく、完成するためである。」(マタイによる福音5章17節)それが新約における律法の完成であると思います。
 十戒のほとんどが自然法ですが、ただ「安息日を聖なるものとする」ことだけはそうではなく、 幾つかの自然の法則に基づいて神がお決めになった実定法だと思います。 七日周期の生活のリズムは人間の本性に最もかなっている可能性があります。 フランス革命のあとで暫らく一週間を十日にして失敗に終わったことがありますが、 それは人間性に合わなかったからではないでしょうか。
 週七日の習慣は、早くからイスラエルに取り入れられましたが、 イエスの時代にはその習慣はギリシャやローマの世界にも広まっていました。 しかし、最初にキリスト教が広まった多くの地域ではそうではありませんでした。 また、週七日の地域でも、ユダヤ人が週の第一日と呼んだ日曜は通常休日ではなく、 キリスト教の初期には、信者が、日の出前にミサに集まったのはそのためだったと言われています。
創造と救いの記念日
 さて、旧約聖書の第一巻、創世記によると、神は六日間で天地万物を創造され、七日目に休まれ、 七日目が安息日となりました。 新約聖書の安息日の理解は次の通りです。
 「安息日の休みが神の民に残されているのです。なぜなら、神の安息にあずかった者は、 神が御業を終えて休まれたように、自分の業を終えて休んだからです。 だから、わたしたちはこの安息にあずかるように努力しようではありませんか。 さもないと、同じ不従順の例に倣って堕落する者が出るかもしれません。」 (ヘブライ人への手紙4章9‐11節)(12月号へ続く)