使徒的書簡「主の日」について(2)
ラウレンチオ 小池二郎神父
第1日と第8日
新約時代に入って、安息日は、キリスト信者にとって、また含蓄的には全人類にとって、 休養を取り、神の創造の業を賛美し、キリストの受難と復活によって罪を赦され 救われたことを感謝する日となりました。
しかし、最初の頃はユダヤ教からの改宗者 も多く、週にただ一日の休日を土曜日から日曜に変えることは相当に困難でした。
キリスト教の内部には最初の頃、安息日と日曜とを「二つの兄弟の日」として守るグ ループがありましたが、やがてキリスト信者の安息日は日曜になりました。
「わたしたちは日曜を祝います。主イエス・キリストの尊い復活の日だからです。 わたしたちは復活祭のときだけではなく、週が繰り返されるたびに祝います。」(417年没の教皇インノケンティウス一世の言葉。(19)
日曜と安息日との比較から重要な神学的反省が生れました。 (24参照)日曜は週の第一日ですが、「週の初めの日」の出来事である復活と宇宙創造の第一日の出来事との対比は、 復活が新しい創造の始まりであるということの理解を促進しました。
さらに「安息日を週の第七の日として位置づけることによって、主の日は、 次のような互いに補い合う象徴的な表現に基づいて考えられるようになりました。
教父たちによって大変好まれたこうした表現によれば、 日曜は週の第1日であるだけではなく『第8の日』でもあり、連続する七日間の中で、 時の始まりだけでなく、
『来るべき時代』における時の終わりをも呼び覚ます独自の卓越した位置に置かれているのです。 聖バジリオは、日曜日が、今の時代に続く真に比類ない日を象徴すると説明します。
それは、終わりのない日で、夜も朝も知らず、決して衰えることのない不滅の時代です。 日曜日は、キリスト者の希望を新たにし、
歩みの途中にあるキリスト者を元気づける尽きることのない命について、 いつもあらかじめ告げています。安息日の先取りされた象徴的な内容を完全に満たす終わりの日に目を向けて、
聖アウグスチヌスは『告白』の結びで、『エスカトン(終末)』について『静けさの平安、安息日の平安、 暮れることのない平安』と記しています。日曜日、すなわち『第一』でもあり『第八』でもある日を祝うとき、
キリスト信者は永遠の命の終着点へと導かれます。」(26)
使徒的書簡は、日曜が本来の意味を失い、「週末」の単なる一部になってしまうなら、 人々は非常に限られた地平に閉じ込められたままなので、もはや天の国を見ることが出来なくなることを憂いています。(4)
感謝の祭儀を大切に
世界的に見ると、都市にあっても日曜を熱心に祝う多くの新しい教会が生れている反面、
「世界の別の地域では、すでに指摘したような社会的に切迫した状況から、 またおそらく信仰の動機が弱くなったことから、日曜の典礼に参加する人々の割合は著しく低くなっています。」(4)
そこで、「教会の掟の根底にある重大な教えに関する基礎を回復すること」(5)が必要です。
「恐れずに、皆さんの時間をキリストにささげてください。…キリストに時間をささげることは、 決して時間を失うことではありません。むしろ時間を獲得することです。
それによって、わたしたちの関係と生活全体は、確かにいっそう人間らしくなるのです。」(7)
ラテン語の諺に、大工をしながら大工になる、という諺があります。毎日曜日のミサに与りお恵みを受けながら、 週毎に、年毎により深くミサの奥義を理解出来るようにしていただきたいものです。