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聖フランシスコ吉と聖トマス小崎  
ラウレンチオ 小池二郎神父
 カトリック甲子園教会は、1963年、大阪大司教、田口芳五郎枢機卿によって、 夢庵木村巳吉先生が若い日より敬慕して止まなかった日本26聖殉教者の一人、 聖フランシスコ吉に捧げられ、祝日が2月5日に決まったと、正面玄関の白板に書かれています。
 この教会と木村先生との深い関係、先生と枢機卿との親交、 この教会の守護聖人が聖フランシスコ吉であることは以前から知っていましたが、 先生が若いときから聖吉を敬慕しておられたことはこの白板で知りました。
 しかし、最近、ヨゼフ永井光太氏の書かれた「聖フランシスコ吉と甲子園教会」を読んで、 木村先生が若いときから聖吉を敬慕された理由、そしてこの地に教会を建てることが念願であったことが分かりました。
 「故木村夢庵先生が若かりし24歳のとき、関西学院の神学生であったが、 キリシタン研究のため長崎地方を旅行されたことがあり、 その際、大浦天主堂の聖母マリア像の前でお祈りをされた。
 その時手にされていたビリオン神父著の『鮮血遺書』を“開いて見よ”というお告げを受けられた。 そこで目に付いた個所は、聖フランシスコ吉がこの甲子園の地で捕縛されて、殉教者の列に加えられた様子であった。
 そこで先生はこの聖人にゆかりの現在地をこよなく愛され、記念に聖フランシスコ 吉に捧げる教会を建てたいという熱情と願望とを、その時から抱き続けられた。」 (聖フランシスコ吉と甲子園教会)
枝川の岸の茶店
 聖フランシスコ吉は伊勢の出身で京都のフランシスコ会修道院の近くに住む大工でしたが、 ペトロ・バプティスタ神父から、殉教の約9ヶ月前に洗礼を受けました。 かれは、「武士のような気質の持ち主」でした。 彼は、秀吉の逮捕者名簿に自分の名が記載されていなかったことを残念に思い、 バプティスタ神父と共に殉教者の列に加えられるよう願い出ましたが許されず、 京都から長崎に向かう殉教者について行き、 一行が西宮市枝川の橋の西詰めにあった茶店で休息していたとき、 ようやく受刑者に加えてもらいました。 永井光太氏によるとその場所は、 現在の旧国道沿いで、その日は新暦1597年1月9日でした。
 私は近く、その場所を自転車で行って探して見ようと思っています。
 またその日、西宮市の他のところで、もう一人、京都で、 オルガンティーノ神父から道中の殉教者達の世話をするように派遣されていたペトロ助四郎(年齢不明)も受刑者に加えられました。
 私は、最近、ある方から1998年7月31日発行の 「日本カトリック神学会誌」の別刷り「基調講演、二十六聖殉教者のメッセージ」(講演者、片岡千鶴子)を頂きました。 大変興味深い講演ですが、それをここで紹介することはできません。 ただその講演の付帯記事として掲載されている少年トマス小崎(二十六聖人中三番目に若く、当時14歳)の母にあてた手紙を転記させていただいて、 彼らの信仰を偲びたいと思います。
小崎少年の母への手紙
 「神の御助けによってこの数行をしたためます。長崎で処刑されるためそこへ向かう神父様と私達は、先頭に掲げた先刻分の通り24人です。
 私と父上ミゲルのことについては御安心下さいますように。天国で近いうちにお会いできると思います。
 神父様達がいなくとも、もし臨終の時、犯した罪の深い痛悔があれば、 また、もしイエス・キリストから受けた多くの御恵みを考えそれを認めれば救われます。
 現世ははかなきものですから、パライソ(天国)の永遠の幸せを失わぬように努めて下さいますように。
 人々からのどのような事に対しても忍耐し、大きな愛徳をもつようにして下さい。
 私の弟達マンショとフェリペを未信者の手に渡さぬように御尽力下さい。 私は我が主に母上たちのためにお祈り致します。
 私の知人の皆様に宜しくお伝えください。
 重ねて申し上げます。犯した罪について深く痛悔をもつようにして下さい。 これだけが大切なことです。アダムは神に背いて罪を犯しましたが、痛悔と償いによって救われました。」
 安芸国三原の城から、 十二番の月の二日[1597年1月19日]

 さて、この手紙は、少年トマス小崎が、三原の牢番の親切で母にあてて認めた手紙です。 これは父ミゲル小崎[当時46歳]に託されましたが、京都に届ける術がなく、 ミゲルはこれを懐にもったまま殉教しました。 殉教者の遺体は80日間さらしものにされましたが、 その後、血に染まったこの手紙がミゲルの遺体から発見され、人々の涙を誘ったということです。
 受刑者の総数は安芸の国を通過する頃にはすでに26人であったはずなのに、少年は、 24人と書いていますが、理由は分りません。
 殉教者たちは、司祭や修道者を除いて、長い間、信仰教育を受けた可能性は低いと思います。 勿論、少年トマス小崎も同じことです。 それにもかかわらず、 この手紙は、私達が学ばなければならない驚くほど深い信仰をあらわしているように思います。