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ミサの時刻が変わります 
ラウレンチオ 小池二郎神父
午前7時と9時30分
 今年4月27日から日曜日のミサが、今までより早くなって、午前7時と9時30分になり ます。土曜午後7時の主日のミサは、これまで通りに続けます。
 今日は、なぜミサの時刻を変更するかの理由を説明させていただきます。
 ミサはカトリック信者にとり、毎日曜日に参加すべきものです。そうだとすると、 早い第一ミサがあるのは、良いことではないでしょうか。
 わたしの少年時代、夙川の第一ミサは6時でした。今も6時のミサを望まれる方がお られると思いますが、それに参加できる方は少数と判断し、第一ミサを7時からとさせていただきました。
 7時のミサの利点に次のようなことが考えられます。よくありそうなことですが、 小、中、高校生、あるいは大学生のクラブの練習が午前9時から始まるとします。 そんな時、カトリック教会は日曜日にスポーツをすることまで禁じてはいませんから、 7時からのミサに与ってから、クラブ活動に参加することができます。 塾に通うためにも7時のミサが好都合という場合もあるとおもいます。
 また、家族中一人、または少数の人だけが信者である場合、 7時のミサに与ることができれば、帰宅後、他の家族と朝食を共にすることも出来ます。
 日曜日の大切さは、「主の日」であることの他に、「安息日」であるということです。 日曜日ぐらいはゆっくり寝るのも、安息日の一つのよい過ごし方ですが、 信者が7時のミサに与る時は、その日をより長くより有効に使うことが出来ます。
 9時30分のミサは、10時のミサより30分早く、これまでの経験上、ミサ後の集まり、 たとえば評議会が正午までに、あるいは正午をあまり過ぎない時刻に終わることができ、 さらに、限られた方々ですが、地区集会への出席が易しくなります。  第二ミサは遅い方が良いという方には申し訳ありませんが、30分だけ我慢してください。 もう一つ、7時と9時30分のミサの組み合わせのよいところは、 二つのミサの間の 時間が1時間30分になることです。これまでは、30分で、地区集会などをしていただいておりますが、 少し無理があったのではないでしょうか。
 最近の日本の教会では、安息の日であるべき日曜日が、熱心な信者にとって、 多くの奉仕のために、普段よりも忙しい日になっています。それには止むを得ない面がありますが、 長期的には無理をしてはいけないと思います。
 日曜日はミサを中心にした礼拝の日であると共に、安息の日でもありますが、 今回の時間の変更が、少しでも安息日を取り戻すことに役立つことを願っています。
毎日曜日と守るべき祝日
 「『カトリック教会のカテキズム』は『日曜日に祝われる主の日と感謝の祭儀は、 教会生活の中心である』(2177)とはっきり教えています。」(教皇ヨハネ・パウロ二世使徒的書簡「主の日」32)
 「(ある)小教区の問題としては、日曜日の感謝の祭儀のために司祭の役務が得られないということが残っています。 …(このような)状況では、教会は、司祭がいなくても日曜日の集会を開くよう勧めています。 …けれども、目的は相変わらず、ミサの奉献を執り行うことであり続けなければなりません。」(「主の日」53)
 「もっとも初期の時代には規定する必要がないとみなされていたとしても、 教会は、良心の義務をはっきりと主張し続けてきました。 この務めは、初期の時代のキリスト者たちがとても強く感じていた内的な要求から生じます。 教会が、日曜日のミサへの参加が義務であることを明らかにしなければならなかったのは、 ある人々の不熱心や怠慢に直面してからのことです。 …1917年の『教会法典』は、このような伝統を初めて普遍的な法にまとめました。 現行の『教会法典』はそれを繰り返してのべています。 『主日及びその他の守るべき祝日には、 信者はミサにあずかる義務を有する。』 法としてこのように定めることは、 通常、重大な義務を必然的に伴うものであると解釈されている。」(同上47)
 教会も信者に余計な重荷を負わせたくないと望んでいるはずです。しかし、年に52、 3回の日曜とクリスマスと元旦の二つの祝日のすべてに信者がミサに与るところに、 カトリック教会の力強さがあるのではないでしょうか。
 聖パウロが、人が義とされるのは業ではなく信仰であることを強調したのはガラテアの信徒への手紙にさえ次の言葉が見られます。
 「人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。自分の肉に蒔く者 は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。たゆまず善を行いましょう。 飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになるのです。」(6章7節‐9節)義を理解出来るようにしていただきたいものです。
昭和初期の信仰
 岸和田カトリック教会に、大正の終わりから昭和7年5月18日に永眠されるまで主任司祭だったパリ外国宣教会マクシム・プイサン神父が、 亡くなる月の9日までフランス語で書き続けられた「岸和田教会日誌」が残されています。
 わたしが岸和田に勤務していたときこの日誌をコピーされたフランス人司祭が、 その後少しずつ日本語に翻訳され、大体出来上がったところで、最近、不明な個所をわたしと一緒に推測するためこちらに来られました。 その日、持ってこられた翻訳は大変興味深いもので、これによってプイサン神父と当時の信者の熱心さをあらためて知ることができ、 大変感動しました。
 1927年(昭和2年)1月30日(日)の日誌は次のようです。
 「第一ミサ(当時は午前4時)に、泉州紡績から107人、寺田紡績から115人が参加。 第一ミサの前、寺田紡績の人とだけ十字架の道行きを行う。第一ミサの後、聖体降福式。 第二ミサ(午前9時30分)前の十字架の道行きに参加した人、105人。」
 当時、長崎の多くの信者が、泉州に紡績の女工として働きに来ていました。勤務は二交代制で、楽ではなかったようです。 また日曜日にも働かなければならなかったようですが、万難を排してミサには来たのです。 それがむしろ彼女たちにとって大きい慰めであったようです。 十字架の道行きに参加した信者は、朝の3時30分から教会に来ていたことになります。 400年遡らなくても、ここにも土着化した信仰の模範があるように思います。