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ロザリオ・光の神秘 ー主の洗礼ー  
ラウレンチオ 小池二郎神父
 「吉報5月号」で、ロザリオの年(2002年10月16日から2003年10月末日)の聖母月にちなんで、 「ロザリオ・光の神秘」の題のもとに、 ロザリオの意義、唱え方、そして、ロザリオの15の奥義が、 昨年から「光の5奥義」が加わって20奥義になったことなどを書かせていただきました。 しかし、表題にもかかわらず、光の奥義の中身に入れませんでしたので、 今回から、中断はありえますが、5奥義について、順次書かせていただこうと思います。
主の洗礼
 洗礼者ヨハネは謙遜な人です。「わたしはその(主イエスの)履物をお脱がせする値打ちもない。」(マタイ3章11節) 「『わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。』イエスはお答えになった。 『今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。』」(同章14節‐15節)
 人間であると同時に神であり罪の穢れのない主イエスご自身が、 人間に過ぎない他人から洗礼を受けることを「正しいこと」と言っておられます。 なぜそう言われたのでしょうか。それは、将来洗礼を受けるすべての人々と、 運命をともにされることが御父のお定めになるところだったからではないでしょうか。
 ヨハネは、自分は人々を悔い改めに導くために洗礼を授けているが、 わたしの後から来る方(主イエス)は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる、 と言っています。(同上)
 ところで、イエス様ご自身がお受けになった洗礼は悔い改めの洗礼か、 聖霊と火による洗礼か。わたしたちの洗礼がそうであるように、 主の洗礼も両方の洗礼ではなかったかと、わたしは思います。 それでは、なぜイエスに悔い改めが必要だったのでしょうか。 もちろんご自身のためではありません。
「わたしたちがその方によって神の義を得ることができる」 (コリントの信徒への手紙二5章21節)ために「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさった」(同所)からです。
 「イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。 そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。 そのとき、『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、 天から聞こえた。」(マタイ3章16、17節)
 新約聖書には「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という御父の御声が二度聞かれます。 もう一つの場面は、主イエスの御変容のときです。 この御言葉が聞かれるときは、いずれもイエスの公生活の特別に重要な場面です。 この御言葉が主イエスの受洗直後に聞かれたということは、イエスの受洗が人類に重大な意義を持つことを意味するものです。 しかし、これは、わたしたちの洗礼の重要性をも意味するものではないでしょうか。
 主の洗礼は、わたしたち一人一人の洗礼の恵みの源です。 ですから、ロザリオでイエスの受洗を黙想するとき、わたしたちの受けた洗礼の恵みをも感謝して考えるようにしましょう。
 わたしの聴いて忘れることのできない説教のなかに、次のものがあります。
 「犬にも誕生日はありますが、洗礼の記念日はありません。」