ロザリオ・光の神秘 ーイエスの変容ー
ラウレンチオ 小池二郎神父
六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。
イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。 エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。
ペトロが口をはさんでイエスに言った。 「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。
一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」 ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。
すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」 弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。(マルコによる福音9章2節~8節)
昨年の10月15日までは、何百年も、ロザリオの祈りは、イエスの誕生、御受難、御死去に関する15の奥義に限られていましたが、 それでも中身は充実したものでしたが、今は、イエス様の公生活の大切な出来事が加わり、より完全なものになりました。
昨年10月16日、ヨハネ・パウロ二世教皇様が使徒的書簡「おとめマリアのロザリオ」を発表され、 その中で、イエス様の公的生活から重要な五つの出来事を選んで光の神秘と名づけ、ロザリオの神秘に加えることになさいました。
来世の栄光の予告
主イエス・キリストは、御受難の少し前、エルサレムに向かう途中、三人の弟子を連れて、タボル山に登られました。 そのときイエスの姿が、
弟子たちの前で、この世のものとは思われないまばゆい光で輝く姿に変わり、 モーセとエリヤが現れ、イエスが彼らと話を交わされました。それが、今日黙想する光の神秘の第4神秘です。
そのとき、イエス様の服までが、天国の服を思わせるものに変わりましたが、 マルコは、その輝きを「この世のどんなさらし職人の腕も及ばない白さ」という素朴な言葉で表しました。
この変容は、福音書の特徴から言って、決して作り話ではありません。 また3人の使徒が見た単なる幻でもありません。多分、イエスの服と体の物理的、
化学的性質はそのまま残り、 その上に、イエスの永遠の栄光の姿が、神によって、自然の姿を隠すほどに、現わされたのではないでしょうか。
この変容は、主の受難と十字架の死という困難の前に、使徒たちを励ます目的でなされたということを、 わたしは、度々読んだり聞いたりしました。
それは、そうだと思います。しかし、使徒たちにとって意表を突くこの出来事も、す ぐには、全面的効果をもたらしませんでした。なぜかというと、十字架のもとに残った男性は、ただヨハネ一人だったからです。
しかし、共観福音書〈三福音書〉のすべてが伝えるこの出来事は、間違いなく、 イエスの再臨のときまで、数限りない人々に、 イエスの永遠の栄光とそれに与るわたしたち自身の栄光を考えさせる大切な拠り所であり続けることでしょう。
あとになって、ペトロは、この出来事を手紙に書いています。
「主イエス・キリストの力に満ちた来臨を知らせるのに、わたしたちは巧みな作り話 を用いたわけではありません。わたしたちは、キリストの威光を目撃したのです。 荘厳な栄光の中から、『これはわたしの愛する子。わたしの心に適う者』というような声があって、 主イエスは父である神から誉れと栄光をお受けになりました。 わたしたちは、聖なる山にイエスといたとき、天から響いてきたこの声を聞いたのです。 こうして、わたしたちには、預言の言葉はいっそう確かなものとなっています。 夜が明け、明けの明星があなたがたの心の中に昇るときまで、暗い所に輝くともし火として、 どうかこの預言の言葉に留意していてください。」(ペトロの手紙二1章16節~19節)
モーセは、旧約聖書中、主イエス・キリストに似た人物(予型)、しかも最高の人物です。
紀元前13世紀、モーセは、死ぬまでの40年を費やしてイスラエルの民を、エジプトから約束の土地に導きました。 シナイ山で、十戒を授かったのも彼です。
エリヤは、紀元前9世紀最大の預言者です。カルメル山で、 バアル神の450人の預言者を向こうに回して勝つことができたものの、
アハブ王とその后イゼベルの兵隊に命を 狙われ、300キロの困難な道を徒歩でシナイ山まで逃れた人です。 その途中で、「主よ、もう十分です。わたしの命をとってください。」(列王記上19章4節)と、死を願ったこともありました。
以上の二人が、旧約から選ばれてイエスと話し合いました。何を話し合ったか、想像 するしかありませんが、中身は、見せ掛けの会話ではなく、真剣な、イエスを助ける会話であったに違いありません。
変容の神秘は20神秘の内、唯一の時間と永遠を結ぶ神秘です。この神秘を黙想してロ ザリオを唱えるとき、時には「永遠」をテーマにして黙想してはどうでしょうか。
永遠はクリスチャンに懐かしいはずの言葉です。永遠は時間がいつまでも続くこととは違います。 わたしたちは死ぬことによって永遠の世界に入ります。いや、今から入っていると言うこともできます。