主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、 「これは、あなたがたのためのわたしの体である。
わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。 また、食事の後で、杯も同じようにして、 「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。
飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。 だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、 主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのである。(一コリ11章23節‐26節)
カトリックの信仰の基礎は神の啓示にあります。 その啓示が示されている場所について、プロテスタントは、それは聖書のみであると言い、
カトリックは聖書と聖伝の二つであると言います。 聖書と聖伝の二つと言っても、この二つは、ばらばらにあるのではありません。 聖書と、直接に関係のない聖伝があるか否か、
これは、教会の公式の文書にはまだ現われていないと思いますが、 聖伝の少なくとも大部分が、聖書の解釈であり、行間の説明です。 カトリック教会は聖書と聖伝はお互いに補い合うものだと教えています。
少なくとも、何が聖書であるかを示すものは、基になるものとしては、 聖伝以外にはないのではないでしょうか。 聖書の原典には、聖書の目次は入っていませんから。
上掲のコリントの信徒への第一の手紙11章に関わる聖伝について考えて見ましょう。 今は、教父たちの書き残したものからそれをうかがう作業は省くことにします。
この作業は有益ですが、この場合、それを必要としないほど、教会の中に、 ミサが信仰生活の中心に置かれ、単なる儀式ではなく、本質的に、
十字架の犠牲と変わらない、 仔細を道具とするイエスご自身の行為であり、 ミサにおける、聖別後のパンとブドウ酒は主イエス・キリストの御体と御血の単なる象徴ではなく、
実にその御体、その御血であるという信仰が、使徒時代より今まで、連綿と受け継がれてきているのです。 これが聖伝です。
ミサ(エウカリスティア、あるいは感謝の祭儀)の起源の記述があるところは、 新約聖書の次の四個所です。
マタイによる福音書26章26節―28節、マルコによる福音書14章22節‐24節、 ルカによる福音書22章19節‐20節、使徒パウロのコリントの教会への第一の手紙11章23節‐26節。
この中で、「わたしの記念としてこのように行いなさい」が、 一コリ11章に2回(11章24節と25節)、ルカに1回(22章19節)出ます。この一句がなくても、 聖伝は、ミサが繰り返しおこなわれるべきこと、
しかもかなり頻繁に行なわれるべきことを伝えていると思いますが、 しかしなお、この一句はこの聖伝を支える貴重な一句でもあります。
教皇ヨハネ・パウロ二世は、昨年12月9日、 バチカンのクレメンス・ホールにポーランドから来たラドム教区大神学校に関わる4人の司教と教授、 大神学生など200名の巡礼者をむかえ、
お話になりましたが、 「わたしの記念としてこのように行いなさい」は、その時のお話の主要なテーマの一つでした。
「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。 わたしの記念としてこのように行いなさい」(ルカによる福音22章19節)この言葉は、 主イエス・キリストが御父と人々への愛のために行なわれた完全な自己犠牲を表し、翌日、完全に実現します。
教皇様は、「わたしの記念」と、謙遜と愛をもって、主が弟子たちの足を洗われたこととの関連も指摘されます。
「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。…わたしがあなたがたにしたとおり に、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。」(ヨハネによる福音書13章12節、15節)
また教皇様は、この「わたしの記念」は、特に、御受難と御死去の時の主イエス・キリストを表してはいるが、 主の地上の一切の生活をも表すものであること、 主の復活と聖霊降臨とも内的に深くつながっていることを教えておられます。
「わたしの記念としてこのように行いなさい」(ルカ22章19節)には大変深い意味があることを教皇様のお話で痛感しました。 ミサの間に一度しか出ないこの一句を、今後、いっそう大切にしたいものです。
たとえこの一句が聖書に欠けていたとしても、聖伝は、ミサが最後の晩餐と一つの犠牲死を表しながら、 時間と空間を越えて広がり繰り返されるべき行為であることを伝えたに違いありませんが、
実際には、この一句が聖伝を支える貴重なものとなりました。
最後に、この個所の訳について、わたしの小さい意見を聞いてください。違った意見をお持ちになり、教えてくださるなら幸いです。
「わたしの記念として このように行いなさい」(ルカ22章19節、一コリント11章24節と25節.新共同訳) 「記念として」だと、記念以上のものではなくなるのではないでしょうか。 「このように」より、ここは、原文どおり、「これを」の方がよいように今は感じています。
「私の記念としてこれをおこなえ。」(ルカ22章19節、ドン・ボスコ社)
「これを、わたしの記念として行ないなさい。」(ルカ22章19節、フランシスコ会聖書研究所2002年4月改訂新版訳)
「わたしを覚えてこれを行ないなさい。」(ルカ22章19節、新改訳)
「私を思い起こすために、このことを行なえ。」(ルカ22章19節、岩波書店)
“Do this in remembrance of me.” (ルカ22章19節、英語版エルサレム聖書)
ギリシャ語の原文に一番近いのは英語版エルサレム聖書だと思います。
わたしは、「わたしの記念として」の「の」を「を」に代え、「と」を取るとよくなると思いますが如何でしょうか。また「このように」ではなくて、「これ」、または「このこと」がよいと思います。
わたしの提案は、「わたしを記念し、これを行ないなさい」です。