知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる
コリントの信徒への手紙8章1節
ラウレンチオ 小池二郎神父
聖パウロは博識でした。そのことは使徒言行録の次の二か所からもうかがうことができます。 「わたし(パウロ)は、キリキア州のタルソスで生まれたユダヤ人です。
そして、この都で育ち、ガマリエル(当時の有名な律法学者。大祭司たちが使徒たちを殺そうと図った時、おだやかな処置を勧告した。 5章33節―39節)のもとで先祖の律法について厳しい教育を受けました。」
(エルサレムでの最初の自己弁明 22章3節) ユダヤ総督フェストゥスに弁明したパウロに、フェストゥスは、 「パウロ、お前は頭がおかしい。学問のしすぎで、おかしくなったのだ。」(26章24節)
この他、聖パウロが理詰めの人であったことは、ローマの信徒への手紙などからも分かります。 しかし、何よりも愛を大切にしていたことは、表題の一語からも明らかです。
「知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる。」この言葉は、これだけで、キリスト信者の生活指針になりますが、 この言葉がどんな背景で生まれたかを説明します。
「偶像に供えられた肉について言えば、「我々は皆、知識を持っている」ということは確かです。 ただ、知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる。
自分は何か知っていると思う人がいても、知っていなければならないようには、まだ知っていないのです。(文末に註)
しかし、神を愛する人がいれば、その人は神に知られているのです。
そこで、偶像に供えられた肉を食べることについてですが、世の中に偶像の神などはなく、 また、唯一の神以外にいかなる神もいないことを、わたしたちは知っています。
現に多くの神々、多くの主がいると思われているように、たとえ天や地に神々と呼ばれるものがいても、
わたしたちにとっては、唯一の神、父である神がおられ、 万物はこの神から出、わたしたちはこの神へ帰って行くのです。
また、唯一の主、イエス・キリストがおられ、万物はこの主によって存在し、わたしたちもこの主によって存在しているのです。
しかし、この知識が誰にでもあるわけではありません。ある人たちは、今までの偶像 になじんできた習慣にとらわれて、肉を食べる際に、
それが偶像に供えられた肉だということが念頭から去らず、 良心が弱いために汚されるのです。わたしたちを神のもとに導くのは、食物ではありません。
食べないからといって、何かを失うわけではなく、食べたからといって、何かを得るわけではありません。」(1節‐8節)
当時、神々に供え物を捧げ、そのおさがりを食べるとその神々と一つになるという考え方が習慣になっていました。 しかし聖パウロの考えでは、
もともと神々など存在しないのだから、 無に捧げられた供え物は何の変化も受けませんし汚れることもありません。
そういう事情をはっきりわきまえ、良心の声に背くことなく食べることのできる人が、聖パウロによると強い良心の人です。
しかし、現実には、強い良心の人は多くはありません。悪いと思いながら食べてしまうことが、まま起こります。
このことに対する聖パウロの対応が、注目に値します。聖パウロは、少なくともこの場合、 無知を矯正するのに情熱的であったり、無知な人が分かるまで教育しようなどとはしません。
むしろ、良心の強い人に要求して、良心の弱い人に合わせて、 怪しいものは食べるなと言います。さらに、自分は、それが弱い良心の人の役にたつなら、 一生肉は食べなくてもいいとも言っています。
主イエス・キリストがされたこの世の終わりついての有名な予言(マタイ25章)によると、 人が救われるかどうかを決めるものは、生前に小さい人を愛したかどうかです。
今日の引用個所から、地上の主に一度も会ったことのない聖パウロの教えも、 くしくも主の教えと根本的において同じであることを感じます。
ちなみに、最初の使徒会議(使徒言行録15章20節)では、偶像に供えられたものを食べることは禁じられました。これは教会の時限法です。
「ただ、偶像に供えて汚れた肉と、みだらな行いと、絞め殺した動物の肉と、血とを避けるようにと、手紙を書くべきです。」
註 今回も大部分、新共同訳を使いましたが、 コリントの信徒への手紙 一8章2節だけは原文により忠実であると思われたフランシスコ会訳を使いました。
その個所の新共同訳は「自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならぬことをまだ知らないのです。」