この大祭司こそ必要な方です
ヘブライ人への手紙 7章26節
ラウレンチオ 小池二郎神父
「このように聖であり、罪なく、汚れなく、罪人から離され、もろもろの天よりも高くされている大祭司こそ、わたしたちにとって必要な方なのです。
この方は、ほかの大祭司たちのように、まず自分の罪のため、次に民の罪のために毎日いけにえを献げる必要はありません。
というのは、このいけにえはただ一度、御自身を献げることによって、成し遂げられたからです。
律法は弱さを持った人間を大祭司に任命しますが、 律法の後になされた誓いの御言葉は、永遠に完全な者とされておられる御子を大祭司としたのです。」(ヘブライ人への手紙7章26節-28節)
俳優、カトリック信者メル・ギブソンが、12年の構想と私財30億円を投じ、自らが監督を務めて、キリストの受難をリアルに描いた映画“パッション”は、
昨年の始め、 米国2000の映画館で拡大公開され、国民的な関心を呼びました。 その後、日本でも上映され、今は日本語の字幕入りDVD が販売されています。
この映画の特徴の一つは、言葉が、ヨーロッパやアメリカの俳優でも特別の訓練を必要とする当時の日常語、アラム語とラテン語であることです。
しかし監督が決めた字幕は英語で、それが各国語に翻訳されています。
もうひとつのそして最大の特徴は、イエス・キリストのご受難が極めてリアルに描かれていることです。
わたしはこれまで三度見ましたが、見るたびに、イエスの鞭打ちの情景は、 もう少し短く出来なかったのかと見終わって思ったほど、イエスの受けられた拷問は残酷なものです。
わたしがこれまで漏れ聞いたところによると、大方の新約聖書の専門家たちは、この映画に、細かい点で史実でないところがあっても、
イエス・キリストが人間としていかに苦しまれたかを伝えようとする監督の意図を評価しているようです。
監督が、経済的損失を覚悟で取り掛かったというこの映画は、封切り間もなく投資した金額を取り戻したという話ですが、 イエスの苦しみがどんなに大きかったかをよく伝えてくれた監督の決断に、わたしは感謝したい気持ちです。
わたしたちはイエス様に恩返しをしなければなりません。 また、イエス様は私たちに、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、 わたしに従いなさい。」(マタイによる福音16章24節)とも言われました。
しかし、決してご自分が忍ばれたのと同じ苦しみをわたしたちが忍ぶことを望んでおられないと思います。 またそれは不可能なことでもあります。
大切なことは、イエス様のお苦しみを、忘れないこと、たびたび思い出すこと、 また、イエス様への恩返しに、何かをさせていただきたい気持ちを持ち続けること、
そして特に、イエス様の功徳と救いの力をかたく信じることだと思います。
聖パウロの言葉によると、「人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰 による」(ローマの信徒への手紙3章28節)のです。
ヘブライ人への手紙は、聖パウロその人の筆になるものではありませんが、彼の思想を汲む何人かによって書かれたと言われます。
誰かは分かりませんが、使徒言行録に出るアポロによるとする説が有力です。 この書において、大祭司イエスが罪のほか、 すべての点でわたしたちに似るものとなられ、わたしたちの弱さを知り、
わたしたちに同情される方であること、また、天において御父に絶えずとりなしてくださる方であることが強調されています。
「もろもろの天よりも高くされている大祭司こそ、わたしたちにとって必要な方なのです。」(26節)
イエス様は、御父の御旨にしたがって、地上のご苦難とご死去を頂点とする一切の務めを果たし終えて、 今は御父の右の座で、わたし達のためにとりなしてくださっています。
「ただ一度」(27節)このただ一度が大変な一度であったことを忘れてはなりません。
このイエス様の大変なお苦しみと救済の力について、その雄弁のために「蜜の滴る博士」と言われる聖ベルナルド(1090‐1153)は、かなり大胆なことを言っていますが、
それが真実だと思います。「教会の祈り」読書第4巻から抜粋して次に引用いたします。
弱い人々にとって、救い主の傷以外のどこに安全で確かな安らぎが見いだせるでしょうか。 人を救う主の力が何よりも強いからこそ、わたしは安心してそれを住まいとするのです。
わたしが重い罪を犯したとしましょう。 そうすれば、良心のとがめを感じるでしょうが、心を乱すことはありません。
主の傷を思い起こすからです。事実、『主はわたしたちの背きのために傷つけられた』(イザヤ53:5)からです。
死をもたらすもののうちに、キリストの死によって取り除かれないほどに致命的なものは何一つありません。
したがって、わたしはこの特効薬のことを思えば、たとえどれほど重い病にかかっていても、決しておびえることはないのです。
したがって、『わたしの罪は重すぎてゆるしが得られません』(ヴルガタ訳、創世記4章13節)と言う人は、明らかに思い違いをしています。
そのようなことを言うのは、ただキリストの体の肢体ではない人、キリストの功(いさおし)が自分と無関係である人、
つまり、キリストの功を自分の功だと主張し、自分が肢体に過ぎないのに、頭(かしら)のものを自分のものとみなす人だけです。
主は平和の計画を立てておられるのですが(エレミヤ29章11節参照)、わたしはそのことを知りません。 事実、「いったいだれが主の心を知っていたでしょうか。だれが主の相談相手であったでしょうか。」(ローマ書11章34節)
わたしの功(いさおし)は主のあわれみなのです。 主にあわれみが欠けていないかぎり、わたしにも功が欠けていないのです。
主のあわれみが豊かであれば、それだけわたしの功も豊かになるわけです。 良心の咎めを感じる罪がわたしにあるとしても、それがいったい何の妨げになるのでしょう。
それは、『罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれた』(ローマ書5章20節)からです。
『主のいつくしみが世々とこしえに』(詩編103番17節)及ぶものであるとするならば、わたしもまた、 『主のいつくしみをとこしえに歌います。』(詩編89番1節)決してわたしの義を歌うことではありません。
『主よ、わたしはあなたの義だけをほめ歌います。』(ヴルガタの詩編71番16節)あなたの義がわたしの義だからです。 あなたは神によって、わたしにとって義となられたからです。(一 コリント1章30節参照)」