わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる
ヨハネによる福音16章7節
ラウレンチオ 小池二郎神父
「実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。 わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。
わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。」(ヨハネによる福音16章7節)
これはイエスさまの告別説教の中のことばです。使徒たちはイエス様と決して離れたくなかったのです。
それでもイエス様は、自分が去るのはあなたがたの利益になるとおっしゃいました。 何故かというと、イエス様が去らないと、聖霊が彼らに来ないからです。聖霊はそれほどわたしたちにとって大切です。
「(あなたがたは)わたしのために総督や王の前に立たされて、証しをすることになる。 (そのとき)何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない。
そのときには、教えられることを話せばよい。 実は、話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ。」(マルコによる福音13章9節、11節)
わたしたちがイエスの命令に従う気持ちがあるなら、そして聖霊を信じるなら、解決できない問題はありません。 それではイエスの命令とは何でしょうか。
「互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」(ヨハネによる福音書15章12節と17節) 勿論、神を愛することもイエスの命令です。第一の掟は「心を尽くし、
精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛(すること)」(マタイによる福音22章37節)であり、 「第二の掟も、これと同じように重要な『隣人を自分のように愛(すること)』」(同章39節)だからです。
「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。わたしは父にお願いしよう。 父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。」(ヨハネによる福音14章15節‐16節)
目立った聖霊の働きをカリスマと言います。目立たなければカリスマとは言いませんが、 目立たなくてもカリスマと同じくらい大切な、時にはそれ以上に大切な聖霊の働きと賜物が幾つでもあります。
「賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。
働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です。 一人一人に〝霊〟の働きが現れるのは、全体の益となるためです。
ある人には〝霊〟によって知恵の言葉、 ある人には同じ〝霊〟によって知識の言葉が与えられ、 ある人にはその同じ〝霊〟によって信仰、
ある人にはこの唯一の〝霊〟によって病気をいやす力、ある人には奇跡を行なう力、 ある人には預言する力、ある人には霊を見分ける力、
ある人には種々の異言を語る力、 ある人には異言を解釈する力が与えられています。これらすべてのことは、 同じ唯一の〝霊〟の働きであって、
〝霊〟は望むままに、それを一人一人に分け与えてくださるのです。」 (コリントの信徒への第一の手紙12章4節‐11節)
聖霊は、洗礼のときに与えられますが、堅信以後に、更に豊かに与えられます。 聖霊は故人にも小教区にも、教会全体にも与えられます。祈らなくても与えられることがありますが、
通常、熱心に祈ることによって与えられます。
ドイツ出身の教理省長官ヨゼフ・ラッツィンガー枢機卿が4月19日コンクラーベで第265代の教皇に選出され、
ベネディクト16世と名乗られました。 選出後、新教皇は、バルコニーに姿を現し、サンピエトロ広場に集まった10万人に近い群衆の声援に笑顔で答えて話された最初の言葉が、
カトリック新聞5月1日号に掲載されています。
「偉大な教皇ヨハネ・パウロ2世の後任に、枢機卿の方々は、主のぶどう畑の卑しく、取るに足らない働き手である私を選ばれました。
私は、不十分な道具を通してさえも主が働かれ、その業を行われるという事実に慰められる思いです。 そして特に、私は自らをあなたがたの祈りに委ねたいと思います。
復活された主の喜びのうちに、 また主の絶えざる御助けに信頼しつつ、私たちは前進します。主はわたしを助けてくださいます。 そして主の至聖なる御母マリアが私たちのそばにいてくださいます。ありがとう。」
新教皇は「私たちは前進します」とおっしゃっています。そして私たちの祈りをも求めておられます。 私たちの祈りに委ねますとさえ言っておられます。
教会を前進させるものは聖霊です。 教会のために、教皇のために、そして自分たちのために、今こそ熱心に聖霊に祈りましょう。