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わたしは柔和で謙そんな者
マタイ11章29節
ラウレンチオ 小池二郎神父
 わたしは柔和で謙そんな者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。」 (マタイ11章29節)
 イエス様は受難の日、大祭司の前で、下役の一人に「何か悪いことをわたしが言ったのなら、その悪いところを証明しなさい。 正しいことを言ったのなら、なぜわたしを打つのか。」(ヨハネ18章23節)と言って、ご自分に偽りのないことを主張されました。
 また、ご自分を「道、真理、生命である」(ヨハネ14章6節)とも言われました。 しかし、福音書と新約聖書の他の部分を見る限り、ご自分が「柔和で謙そんである」ことのほかには、 ご自分の徳については何も言っておられません。 そうだとすると、この二つの徳には特別の重要性があるのではないでしょうか。
 さらに柔和と謙そんについては、わたしに学びなさい、とも言っておられます。 柔和と謙そんは別の徳でありながらも大変に似ており、しかもまた互いに深く関わり合っていますが、 今日は主に謙そんについて考えることにします。
 イエス様は、「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」(マタイ5章48節)と言われました。 わたしたちは何事においても神様のように完全なものとなることは出来ません。 そこでこの命令は、努力目標として示されたのではないかと思います。 柔和にしても謙そんにしても、実際の行いは決してやさしいものではありません。 しかし、相当高い程度に清い人、正直な人、勇気のある人になるのは至難の業であっても、 「謙そん」なら何とか手が届くような気もします。これを神様の親切なお誘いと考えてもいいのではないでしょうか。
 さて、聖トーマス・アクイナス(1225-1274)は、「謙そんは奉仕の精神である」と言っています。 これは謙そんのすべてを言い表してはいないとしても、謙そんについての的確な味わい深い言葉だと思います。
 謙そんのもう一つの面は、自分に正直であること、そして、ありのままの自分を勇気をもって認めるということです。
 謙そんの鑑と言われるアッシジの聖フランシスコ(1182-1226)は、 「人は、神のみ前にあるとおりのものであって、それ以上のものではありません」と常々言っていたそうです。
 数少ない女性の教会博士、アビラの聖テレジア(1515-1582)は次のように言っています。 「あるとき私は、いったいなぜみあるじはあれほど謙そんがお好きなのかと考えていました。 ところがもうそのことについて考えていなかった―と思います―ときに、次の考えが浮かびました。 『それは、神は至高の真理でおいでになり、 謙そんとは真理のうちに歩むことであるからである』と。 私どもが自分自身として何もよいものを持たず、みじめさと虚無にすぎないということは、ほんとうに大きな大きな真理です。 これがわからない人は偽りの中をあゆみます。」(ドン・ボスコ社「霊魂の城」300‐1頁)
 同じく数少ない女性の教会博士の一人、幼いイエスの聖テレジア(1873-1897)も全く同じ確信を自叙伝に記しています。
 柔和と謙そんは一般の社会でも受け入れられる徳です。聖職者も一般信徒も常に謙そんを心がけるとき、日本の宣教にも必ず良い効果をもたらすことでしょう。
 しかし、信者にとって、謙そんには更に別の重要な意味があります。
 イエスの話された、ファリザイ派の人と徴税人のたとえ(ルカによる福音18章9節-14節)を思い起こしてください。
 「二人は祈るために神殿に上った。…ファリザイ派の人は立って心の中でこのように祈った。 『神様、わたしはほかの人たちのように、 奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。 わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』ところが、 徴税人は、遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。 『神様、罪人の私を憐れんでください。』言っておくが、義とされて家に帰ったのは、 この人であって、 あのファリザイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
 義とされることは大変に重大で、わたしたちの最大の関心事ですが、イエス様が、 「徴税人が義とされた」と言われたのですから、それは間違いのないことです。 徴税人の祈りは言葉としては、ただ「神様、罪人の私を憐れんでください」の一句に過ぎませんが、 そこには何か普通ではない心の思い、言葉だけでは表しがたい何かがあったはずです。 この普通ではない心の思いこそ、もはや、それが高いとか低いとかではなく、ぜひとも、幾度ももたせていただきたい心ではないでしょうか。