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なまぬるいので吐き出そう
ヨハネの黙示録3章16節
ラウレンチオ 小池二郎神父
 神は幻を見ている聖ヨハネに、七つの教会に七つの手紙を書くように命じられます が、七番目のラオディキヤの教会に書き送った手紙に次の言葉があります。
 「あなたは、冷たくも熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。 熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている。 あなたは、『わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない』と言っているが、 自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない。」(ヨハネの黙示録3章15節‐17節)
 「徳は中庸にあり。」今調べようもありませんが、四書の一つ「中庸」にこの言葉があるはずです。論語にもあるでしょうか。
これは確かに、東洋思想に含まれた重要な価値観の一つです。しかし西洋にも同じ考えがあります。 中庸は、過大と過小との両極の中間にあるもので、アリストテレスの徳論の中心概念です。 例えば、勇気は臆病と粗暴の中間にありますが、質的には二つとは全く異なった次元に属します。 今調べるのが少々厄介なので、先送りにしますが、聖トーマスの書いたものにもこの教えがあります。 東洋でも西洋でも、中庸の徳は凡庸とは異なり、積極的なものであり、 「熱くも冷たくもなく、なまぬるい」ものとは次元を異にするものです。
 神が「なまぬるいので吐き出す」と言われる悪の状態とはどんなものでしょうか。 その答は、「わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない」と言っているが、 自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていないというみ言葉にあります。
 なまぬるさは、うぬぼれによって、自分の不足が見えないところから来ます。 イエス様が山上の説教で、「義に飢え渇く人々は、幸いである」(マタイ5章6節)と言われましたが、 その心の不足が、このなまぬるさの原因となります。
 とにかく「熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている。」は大変印象的な厳しいみ言葉です。 この考え方は、聖書の他の個所にも見られるはずですが、神が、<なまぬる>いという言葉が叱責される個所は、 わたしの調べたかぎりでは、今のところ全聖書を通じて、ここ(黙3章16節)一個所に限ります。

 さて、「ヨハネの黙示録」について一言すると、 題名は、「イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、 神がその僕たちに示すためキリストにお与えになり、 そして、キリストがその天使に送って僕ヨハネにお伝えになったものである。」という1章1節に由来します。 この黙示は、ヨハネにではなく、イエス・キリストに関係づけられており、 原文のギリシャ語は、「覆いを取り除く」、「明らかにする」などを意味する動詞から派生した名詞で、 「秘められた真理の表明」という意味を含んでいます。
 ところで、本書は、新約聖書中、唯一の預言書で、全聖書の最後に置かれています。 本書は、黙示文学的手法で書かれているため、理解するのが困難な書物の一つといわれていますが、 決して読むのをあきらめるべきではないと思います。 「フランシスコ会聖書研究所」による注釈書をお勧めします。
 本書は、序文の1章と結びの22章6節から21節を別して、大きく二部に分けられます。
 第1部は、七つの教会に宛てられた手紙を含む司牧的部分(2章1節から2章22節)で、 「今あること」で、今日の聖句の出所です。当時の「今あること」は今も役立つものばかりです。 七つの教会にはそれぞれ個性があり、忠実さの度合いも異なり、最も賞賛されているのは、第6のフィラデルフィアの教会です。 ラオディケアにある教会は7番目です。
 第2部は、予言的部分(4章1節から22章5節)で、「これから起ころうとしていること」です。 ここでは、暴君ネロの迫害などをモデルにしながら壮大な歴史神学が展開されます。
 ところで、著者自ら、本書を「永遠の福音」(14章6節)と言っています。本書に挑戦するとき、このことを常に念頭におきたいものです。