驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君
イザヤ書9章5節
ラウレンチオ 小池二郎神父
5ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。
ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。
権威が彼の肩にある。
その名は、「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」と唱えられる。
6ダビデの王座とその王国に権威は増し、平和は絶えることがない。
王国は正義と恵みの業によって、今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。
万軍の主の熱意がこれを成し遂げる
「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」は、イエス・キリストを何と的確に表した預言なのでしょう。
この句は、私の思うところでは、全旧約聖書中、イエス・キリストを最も簡潔に要約した預言だと思います。
驚くべき指導者ー 偉大な知性を持って万物を計画し、保ち、裁く方。
力ある神ー 当時の誰にも、目に見えるメシアが目に見えない神だとは想像できなかったでしょう。むしろ、神のように力のある英雄と考えたと思います。
永遠の父ー 聖パウロはローマ書8章29節でイエス・キリストは多くの兄弟たちの長子となられたと言っていますが、よい兄は父の役割をも果たすものです。
平和の君ー イエス・キリストが、命をかけて求められたものの中に平和も含まれており、また、イエス・キリストなしには完全な平和の到来もありません。
これらの4つの称号について、次のように考えることも可能です。
これらの称号は単に新しく生まれた赤ちゃんに贈られた称号というより、赤ちゃんがやがて就任するメシヤ的な王に与えられる称号と考えることもできます。
勿論その特性は赤ちゃんのときからあります。
王に贈られる称号として考えますと、当時のユダは、大国エジプトの文化的影響を避けることができなかったので、 エジプト王の即位に贈られる5称号の五つという点で影響を受けたかもしれません。
そうだとすると、もう一つの称号は8章8節と10節の「インマヌエル=神はわれわれと共におられる」であるかもしれません。 に加えて5つの称号に従容とする作者の意思があったかも知れないのです。
また先の4つの名称を組み合わせると、4つの称号は、「力ある神が驚くべき計画者」または「神である永遠の父は平和の君」と、みどりごのメッセージにもなります。
ところで、上掲聖書は、新共同訳聖書の引用ですが、初版は1991年に出版されました。 2000年に初版の出たフランシスコ会聖書研究所訳「イザヤ書」は、特にこの個所、前者の影響を多く受けたのでしょう。
大変よく似ていますが、ただ一ヶ所明らかに違うところがあります。
5節の最初、新共同訳は、「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。」しかし、フランシスコ聖書研究所訳の冒頭には、 「まことに、ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた」と「まことに」が付け加わっています。
上掲句は、へブライ語の場合、3節と4節と共に冒頭に、2節で言われている喜びの理由を表すための協調詞「キー(なぜなら)」がついているそうです。 そして、後者訳に「まことに」が加わっているのはそのためのようです。
わたしたちが納得の行くところで、「まことに」イエス・キリストこそわたしたちの喜びと希望と生きがいのもとになる方です。
イザヤ書は、特に待降節、降誕節、四旬節の読み物といわれています。 しかし、イザヤ書には、第1イザヤ(1章‐39章)、第2イザヤ(40章‐55章)、
第3イザヤ(56章-66章)があり、第2イザヤに、 「ヤーウェの僕」が4回現れ、新約聖書にイザヤ書の明瞭な引用が66あり、さらに明らかにイザヤ書を思い出させる個所が350以上もあります。
実に、イザヤ書は、考えることと黙想することの宝庫です。
「イエスはお育ちになったナザレに来て、いつもの通り安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。 預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。
『主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。
主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、 圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。』(イザヤ書61章1節‐2節)
イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。 そこでイエスは、
『この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した』と話し始められた。」(ルカによる福音4章16節‐21節)類は長くその木を待つことになったのです。大切です。